東京ヴァンプ【弐】2

第一章 兄ちゃんが来た!

  発端は、真広がお盆に京都の実家に帰省したときのことである。
  夏休みになってもなかなか戻ってこない末っ子のことを、ずっと気に掛けてやきもきしていたのは、両親よりも次兄の征二だった。
「バイトで忙しかったから」
  と、口をすべらせた真広に、征二は「家からの仕送りは十分やろう。いったいどんなバイトをしてるんや」と喰いついて来た。
「えっと、……調査助手?」
  しまったと思いつつ、真広は曖昧な言葉を選んだ。
「調査? なんの調査や?」
  予想通り、兄は眉間にしわをよせた。
「兄ちゃんが納得できるような説明できひんわ」
「…………」
  こちらの言い方がまずかったには違いない。
  しかし、真広には普通のひとには見えないモノが見えることを、亡くなった祖母以外は家族でも知らない。もちろんこの次兄もだ。
  柚木の助手の仕事の内容を説明しようとすると、必然そういった領域に触れることになる。それどころか、実のところ真広の雇い主はひとではない。
  柚木は、どれくらい長い間生きているのかもわからない<鬼>だ。柚木だけでなく、あの屋敷の住人のほとんどがひとではない。
  真広をスカウトした桔梗は、元は戦国時代のお姫様でひとだったが、いまでは柚木と同じ<鬼>である。
  三つ子の美少女メイドたちにいたっては柚木の式神で、その正体は三体の小さなきめこみ人形だ。新月になると人形に戻ってしまって、玄関の靴箱の上に飾られている。
  柚木の屋敷の深層は時空が入り組んだ迷宮だし、日常的に黒い毛玉が出没するし、ほかにもまだまだ出てきそうな勢いだ。
  そんなこと、征二に説明できるはずがなかった。
  何よりも、そんな<鬼>の養い手になって、真広が柚木に生き血を与えることになったなんて、とても征二が納得するとは思えない。
(これだけは絶対に秘密だから……!)
  うまく説明できない真広を見て、征二が何か裏があると考えたのは当然だった。
  東京の下宿に戻る真広について、兄はいっしょに東京へ行くと言い出した。
  転勤で東京にいる恩師を訪ねる約束をしていたとか、そっちでたまっていた用事を片づけるとか、もっともらしい理由をつけて真広と同じ新幹線に乗り込んだのである。
  東京に向かう列車の中で真広はしかたなく、夏休み中のいまは柚木の屋敷に住み込んでいることを次兄に打ち明けた。
「大学に近くて便利なんだ。歩いてほんの七、八分やし」
  柚木の屋敷の敷地は広いから、それは通用門からはかって、という意味だったが。
  まさか真広がバイト先に住み込んでいるとはさすがに思わなかったのか、征二は驚いて、「それなら保護者として、挨拶に行かねばならないだろう」と、いうことになってしまったのだった。

     ◇   ◇

 普通のひとの眼には見えないモノを相手にしている。
  ――なんて次兄には言えないから、結局「困りごとの相談所で、便利屋みたいなことをしている」と説明しなおした真広だったのだが……。
  ただでさえド肝を抜かれる大きなお屋敷で、そこの主人として現れたのが金髪ビジュアル系の柚木である。
  うさんくさいことこの上ない。柚木のルックスだけで、怪しさは五割増しだ。
  一方、次兄の征二は口うるさくて神経質なところがあり、自称常識人だ。
  なんでも理詰めが考えて、本人の理屈に合わないことはなかなか認めようとしない頑固な兄だ。
(柚木さん、うまく丸め込んでくれるかなあ……?)
  こうなれば柚木のひとあたりのよさと、対人スキルに期待するしかない。
「『柚木よろず相談所』がしているのは、端的に言うと人助けです。ほとんどわたしの趣味のボランティアですね。近々NPO法人にしようかとも考えています」
「ボランティア……ですか」
  征二は、予想外のことを言われたような表情をした。
(ちょっ、ボランティア……って!)
「わたしの亡くなった親がじゅうぶんな資産を残してくれたので、わたしはできれば困っているひとたちの力になりたいと思っているのです」
(……すごい口から出まかせだな、柚木さん)
「しかし、具体的にはどんな?」
「おもに住環境についての困りごとの相談にのっています」
「住環境……」
「近隣とのトラブルとか、居候の問題とか」
「……居候?」
「夜中に奇妙な騒音を立てられて眠れないとか。夢枕に立って安眠妨害するとか」
「? ? ……」
  次兄は目を白黒させて黙ってしまった。
(うーん、ダメだ……こりゃ)
「失礼します」
  澄んだ少女の声がして、メイド姿の満月(みづき)と香月(かづき)が――もしかしたら香月でなく朧(おぼろ)かもしれないが、コーヒーを運んできた。
  真広は征二に双眸が驚きに見開かれるのを見た。次兄はメイド喫茶などにはもちろん行ったことなどないだろうから、インパクトは大きかっただろう。
  奇妙な静寂の中で、ふたりの美少女メイドたちはソファテーブルにコーヒーをセッティングしていく。
「どうぞごゆっくり」
  にっこりと征二に微笑んで退室していくメイド服の美少女たちを、ぽかんと次兄は見送っていた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
  固まっていた征二に向かって柚木が言うと、彼はぎくしゃくとカップを手にした。
  そのときだった、同じくカップを手に取ろうとしていた柚木の脇から、ゴルフボールほどの黒い毛玉のようなものが、二、三匹飛び出した。
「あっ!」
  つい声をあげてしまって、真広は柚木と視線を交わした。
『ああ、わかっている』
  と、柚木は眼で応えて、注意深くカップに唇を近づけてから飲むのをやめて、ソーサーに戻した。
「満月!」
  柚木がメイドの名を呼ぶと、退室したものとばかり思っていた美少女がすぐに応接間に現れた。
「すまないが取り替えてくれ」
「かしこまりました」
  理由も訊ねず柚木からカップをうけとって出て行くメイドを、征二がじっと見ていた。黒いのが見えない次兄には、何のことかさっぱりわからなかっただろう。
  あの毛玉は、柚木にだけちょっかいを掛けたがる。懐いているので、こちらの気を惹きたいのだろうと柚木は言う。
  だから征二や真広のコーヒーが泥水に変わっていることはないはずだが、次兄は恐るおそるカップに口をつけてから、ホッとしたような顔をした。
  だが黒い毛玉は、この客人がめずらしいのか、征二の目の前のテーブルを行ったり来たりしている。
「……」
  毛玉の物の怪が征二に何か仕掛けるのではないかと、真広は心配してひそかにそれを見守っている。
(だいじょうぶ、おれが黙っていれば気づかれないから)
  普通のひとに見えないものは、世間ではそこにないのと同じなのだから。
  ましてや常識にこだわる次兄の征二には、完全に異次元の話である。
  何か異変があったことはわかったと思うが、なぜか征二は真広にも柚木にも何も訊ねなかった。
「――わかりました」
  コーヒーのカップを置いて征二は言った。
「え?」
  何がわかったのかと、真広は隣にいる兄の顔を見た。
「どうやらわたしの専門とはかなり畑違いのようですが。……もう一点だけ、お訊ねしておきたいことがあります」
「何でしょう?」
  柚木がうながすと、征二はまっすぐにその黒い双眸を見た。うっかり見つめると吸い込まれそうになる、柚木の闇色の瞳だ。
  次兄はそれに臆することなく、正面から柚木の視線をとらえた。
「なぜ弟を、……真広を、あなたの助手にしたのですか?」
「……兄ちゃん」
  真広は、そんなことを征二が柚木に訊くとは思っていなかった。
(柚木さん、なんて答えるのかな)
  柚木が真広を選んだのは、<鬼>の養い手として、真広の血が欲しかったからだ。
  しかし、それには互いの信頼関係が必要で、真広もかなり迷った末に決断したのである。自分で決めたことだったが、それを身内に打ち明けるには抵抗があった。
  何より、<鬼>の存在をどう説明していいのかわからない。この前提なしでは、説明など真広には不可能に思える。
「真広くんは屋敷の土塀に張り出した求人広告を見て、最初に訪ねて来てくれましてね」
  にこやかに柚木は言った。
「面接をしたらとてもしっかりとした学生さんで、ぜひこちらからお願いしたいと思った次第です」
「……そうですか」
  征二は柚木の言葉を文字通り受け取ったのかどうか、何事か考えているような顔つきでテーブルからコーヒーのカップを取り上げようとした。
  すると、さっき横切って行った毛玉の物の怪が、征二の目の前のテーブルに戻ってきてぴょこぴょこと跳ね出した。
  まるで征二の気を惹こうとでもするかのような動きである。
(うっわー……)
  だが、アレは征二の眼には見えない。
(泥水じゃないよな?)
  黒い毛玉に気づかずカップを取り上げて口にした次兄を、真広を息を詰めて見つめたが、ひとくち飲んでも何も起こらなかった。
  ホッとした真広のかたわらで、征二はカップを戻そうとして、ふと手をとめた。
  真広が見れば、コーヒー皿の上に黒いモノの一匹がちょこんと座っている。
「……」
  ほんの二秒ほど、妙な間があった。
  それでも征二がそのままカップを下ろすと、黒い毛玉はするりと皿の間からすり抜けてどこかへ消えた。
(……え? 何か、いまの――)
  まさか、と思って柚木の顔を見ると、真広と同感なのか興味深そうな眼差しを征二に注いでいる。
「兄ちゃん、もしかして――」
「おれは何も見てないぞ」
  憮然と征二は言った。自分自身に言い聞かせるようでもあった。
「っ……!」
(嘘っ、兄ちゃんにもアレが見えたんか……!?)
  真広はこれまでに想像したことがなかった。家族で祖母以外にアレが、<鬼>が見えていたかもしれないとは――。
  思えば、すぐ上の兄である征二とは九歳も年が離れていて、真広が物心ついたころにはすでに中学生だった。長兄とでは十一歳、ほぼひとまわりの歳の差である。
  だから真広が学校の友達と話すようなことを、兄たちと話したことはない。
  世代差というか、話題そのものに共通するものがないのだ。そのときの真広が夢中になっていることが、兄たちの興味を惹くということはまずなかった。
  普段の話題すらかみ合わないのに、ましてや祖母からは口止めされていた<鬼>が見えることなんて、こちらから話そうとは思わなかったし、そんなことを話題にする機会だってなかったのである。
  しかし、だ。真広と征二は血の繋がった実の兄弟なのだから、その可能性はあったのだ。どうしてこれまで思いつかなかったのだろう。
  祖母をのぞけば、家族の中でアレが自分だけに見えているのだと、真広はずっと思い込んでいた。
  驚くとともに、実の兄なのに、それとは違う、何か親近感に似た気持ちがわきあがった。
「兄ちゃん、アレが見えたんか?」
「見てへん。黒いのなんか見てへんで!」
  焦ったように言い張る次兄は、すっかり言葉が地元に戻ってしまっている。
「………」
(黒いのって、それ、確実に見えてるし……)
「真広くん」
  と、それまで黙っていた柚木が言った。征二の手前だからか「くん」付けだ
「お兄さんを困らせてはいけないよ」
「でも……っ」
  絶対に認めようとはしない征二の様子を見て、柚木はそれ以上追及するなと、真広に言いたいようだった。
「お兄さん、真広くんのここでのことは、わたしが責任を持ってお預かりします。どうかご安心ください」
  その言葉に征二は柚木のほうへ向き直った。
「……本当に、おまかせしてだいじょうぶなんですね?」
  聞きようによっては失礼な発言だったが、柚木は鷹揚にうなずいた。
「だいじょうぶです。ご心配には及びません。これでもわたしの専門分野ですから」
  すると真広が思いもかけなかったことに、征二が深々と柚木に頭を下げた。
「出来の悪い弟ですが、どうか真広のことをよろしくお願いします」
  そんな具合に、真広にもよくわからないまま、柚木のところでの住み込みバイトは、次兄である征二の公認となった。