東京ヴァンプ【弐】3

     ◇   ◇

 柚木の屋敷の庭では、植え込みで秋の虫が鳴きはじめた。そろそろ夏も終わりに近づいているのだ。
 夕食後、真広は洋館にある自分の部屋に戻ってきた。
 征二は学生時代の友人が東京に会う約束をしているということで、今夜は外食すると言って夕方出かけていった。
 今夜は遅くなるからと最初は遠慮していた征二だが、この休暇で一週間ほど東京にいる間は、結局、柚木のすすめでホテル代わりにこの屋敷に滞在することとなった。
 部屋は屋敷の客間で、桔梗が世話をしてくれるようだ。
(それにしても――)
 次兄にもアレが見えるとは思わなかった。自称常識人の本人は、認めようとはしなかったが。
 もっと早くにわかっていれば、真広はもっと違う子供時代を送れたようにも思える。
(でも、いっしょかな……?)
 征二のあの感じでは、これから先も見えないと言い張りそうだ。
 ベッドに寝転がって、そんなことを考えていると、ベランダに柚木の気配を感じた。
「あ、柚木さん……?」
 ふわりと、伽羅(きゃら)の香りが真広の鼻先をかすめた。
 柚木の狩衣に焚(た)きしめられた香の匂いだ。
 ベッドから起き上がると、真広の予想どおり、フランス窓が開け放されたベランダに、白い狩衣装束の柚木がたたずんでいた。
 金髪ビジュアル系の柚木ではなく、本来の《鬼》の姿の柚木である。
 烏帽子は被らず、艶やかな長い黒髪を夜風になびかせている。
 この姿に戻っているときは、普通のひとに柚木の姿を見ることはできない。
「いいお兄さんだな」
 柚木は言った。
「親より口うるさいけど?」
 真広がそう応じると、ふふっと柚木は笑って部屋に入ってきた。
「きみのことをとても大切に思っている。少し妬けた」
「そりゃあ実の兄弟だし……」
 妬けたなどと言われて、ちょっと頬が熱くなった。
「兄ちゃんにも、……あの黒い毛玉が見えたみたいだった」
「きみほどは見えてないな」
「そうなの?」
「ああ、ぼんやりと感じる程度だろう」
(そうか……、おれみたいには見えてないのか)
「だから、見えなかったことにしているのではないのか?」
「以前の、おれみたいに?」
「そうだな。でもきみにはこのわたしの姿が見えるだろう?」
 狩衣装束の美しい《鬼》は、誘惑するような笑みを浮かべた。そんなふうにされると、不用意に心臓が波打ってしまう。人外の美貌は、ひとの心を惑わせる。
 惑わせて虜にする。――捕食するために。
「真広……」
 ささやかれた声が鼓膜を震わせ、甘美な波動が脳髄を満たして全身に拡がっていく。
「欲しい」
「……っ」
 《鬼》の形のいい唇からつむがれた言葉に、真広は戦慄と同時に恍惚をおぼえる。
 いつの間にかかたわらに立っていた《鬼》の柚木に、真広は抱きしめられていた。伽羅の匂いが狩衣から立ち上る。
「あ……、……」
 どきどきと心臓が騒いでいるが、その腕から逃れたいとは思わなかった。
 初めて真広が柚木に生き血を与えたのは、一ヶ月ほど前のことである。
 まだ若い、新参者の《鬼》に襲われた真広を助けて傷を負った柚木は、長い飢餓状態で弱った力を使い切って、こん睡状態におちいってしまった。
 柚木に力を取り戻させるには、《鬼》の養い手に特徴的な、真広の特別な血を飲ませなくてはならなかった。
 そのとき真広は、自分の意思で生き血を柚木に与えたのだが、牙を突きたてられた痛みによるショック状態になって、柚木によれば、あやうく死にかけたのだった。
「柚木さん、餓えてるの……?」
 すっぽりと抱きしめられたまま、真広は訊ねた。
 柚木ほど長く生きている《鬼》は、長い間ひとの生き血を摂らなくても死にはしない。実際彼は、真広に出会うまでの二十数年間、一度もひとを捕食しなかったのだ。
 ひとにまぎれて、ひとのように生活することにしている柚木は、真広には想像のできないような自制心を持っている。
「――餓えているわけではない」
 柚木は言った。
「ただ、真広が愛しすぎて、食べてしまいたくなる」
「………」
 そんなことを言う柚木は、やはり《鬼》なのだ。
「おれが拒むことはできる?」
「むろんだ」
 柚木は即答した。
「最初にきみ言ったように、《鬼》と、その『養い手』との関係は対等だよ。支配されたり支配する関係でもなく、服従を強いたり、服従をする関係でもない」
 そうだった。互いの信頼関係があって初めて成り立つ関係だ。
 柚木は、《鬼》が怖ろしいと思う真広との間に、その関係を真摯に作り上げようとしている。
 真広にはそんな柚木の気持ちがよく伝わってきた。
 《鬼》を見ることはできても、もとより祓う力などない真広は、柚木の《鬼》の力の前ではまるで無力だ。
 柚木がその気になれば、いまここで真広を押し倒して無防備な肌に牙を突き立て、好きなだけ生き血を貪って喰い殺してしまうことだってできる。
 だが柚木は、そんなことはしない。絶対に。
 真広はそれだけは確信している。
 誰かに根拠を訊ねられたとしたら、直感だとしか答えられないけれど、真広は自分の直感を信じている。
(それって、つまりおれは柚木さんのことを信じてるってことかな?)
 正直、自分でもまだよくわからないのだ。
 どうして柚木の、……《鬼》の養い手になったのか。
 柚木は、真広がこれまでずっと見えても見えない振りで関わらないように避けてきた《鬼》なのに。
 真広には、柚木がひととして暮らしたいと、心から望んでいると思えたからだろうか。それとも自分の身をかえりみず、柚木が真広のことを守ろうとしてくれたから?
 ほだされてしまったのだろうか。
 あの若い《鬼》は真広のことを「家畜」と呼んだ。
 その言葉はいやな感じに、まだ真広の心の片隅に引っかかっている。
 もし、柚木が真広を手なずけるために、優しい言葉をかけて親身になるようなジェスチャーをしているだけだったら? 柚木は《鬼》なのだから、何を考えているかわからないではないか。
 元はひとで柚木の養い手だった桔梗は、たしかに《鬼》である柚木と固い信頼関係を築いていたのだと感じる。
 でも、それは桔梗が女性だったからではないかと、真広には思えてならない。
(おれは男だし……)
 柚木と桔梗の間にあったような恋愛感情から生まれた固い絆は、真広と柚木の間では望めないのではないかという不安がある。
 初めてのとき、柚木はいきなり牙を立てたりせず、抱きしめてキスをしてくれた。その理由を訊ねた真広に、柚木は「親愛の情」だと答えた。
(親愛の情と、恋愛感情はなんか違う……よな?)
 よくわからない。
 もし柚木に訊ねれば、それなりの答えをしてくれそうだが、いま真広にはそうするつもりはなかった。
 少なくとも真広は、《鬼》なのに、柚木のことはいやではなかったから。
「……咬んでもいいよ」
 眼をふせたまま真広は言った。
「真広」
 かすかな喜色をにじませた声で名を呼ぶと、柚木は軽く真広の顎をつかんで上向かせた。
 端整な容貌にある闇色の双眸に見つめられて、真広の背筋に震えが走った。
(やっぱり少し怖い)
「でも、あまり痛くしないで」
「……善処する」
 柚木は真広をベッドに腰掛けさせると、自分は床に膝をついて、まるでこちらを崇めるように目線を合わせた。
 黒光りする瞳に見つめられると、深い淵に吸い込まれるような心持がする。
(この洋館の部屋に狩衣装束の柚木さんはミスマッチだな)
 なんて考えて、真広は無意識に自分の緊張を緩めようとしていた。
 真広の心臓がばくばくしてるのは、もう柚木にも気づかれているだろうが、怖がっているとは思われたくなかった。
(痛いのは怖いけど……)
 柚木のことを怖がっているのではないと思う。
 自分の生き血が《鬼》の柚木の生命の源になるのを想像すると、言いようのない高揚感がある。文字通り真広が《鬼》を養うのだ。
 千年も前の昔から生きている、この美しい《鬼》を――。
「ぁ……」
 覆いかぶさるようにベッドにそっと押し倒されて、真広は思わず胸をあえがせた。
 ひんやりとした柚木の黒髪が頬に触れる。
 人外の、間近で見れば壮絶なほどの美貌が近づくと、それ以上は怖くなって真広はぎゅっと目をつむった。
(どこ……咬むのかな?)
 初めてのときのように、熱い血流が脈打つ首筋だろうか。
 真広は牙が突き立てられる衝撃にそなえて、身構えていた。柚木は『善処する』とは言ってくれたが、痛いには違いないだろうから。
「真広、愛している……」
 美声のささやきが口移しにされた。
「……!」
 柚木のセリフにもびっくりして、思わず目を見開いてしまう。
 しかし真広を驚かせたのはそれだけではなかった。柚木は真広の口を開かせると、舌をすべりこませ貪るような口づけを仕掛けてきた。
「ぁ…ん……っ」
 温かな舌で上顎の歯の付け根をくすぐられ、逃げようとする舌を柚木のそれでからめ取られる。濡れた音を立てながら口腔の自分でもしらないような所を舐められて、頭がぼうっとしてくる。
(……こ、これがキス……?)
 これと比べたら最初のときなんて、ままごとみたいなものだった。
「真広、舌、出して……」
(そんなこと言われても……っ!)
 本気でどうしたらいいかわからない。