東京ヴァンプ【弐】4

 だいたい柚木と何でこんなことになっているのかもわからなくなって、真広の息はどんどん上がっていく。
 柚木が真広をベッドに押し倒した理由が今頃わかる。立ったままだったらきっと真広は腰がくだけているに違いない。
(どうしよう……)
 身体が変な感じになってきている。熱くなって、つまり、その――。
「ゆ、……ずき、さ……、っ」
 喉元を強く吸われて真広は顎をのけぞらせた。
 じんとした痛みのような刺激が肌にひろがっていく。痛いと思ったはずなのに、奇妙な快感のようなものがさざ波のような余韻を残す。
 それが消えないうちに柚木の唇は別の箇所に移動していて、さらなる刺激を重ねていく。
「ん……っ、くっ……!」
 そのとき鋭い痛みが首筋でフラッシュのようにひらめいた。一瞬遅れて、痛みは脳天に突き抜ける。
 しかし、痛みの衝撃が全身をめぐることはなく、柚木の唇を肌に感じたとたん霧散していく。
(あれ……? そんなに痛く……ない)
 さっきの口づけの延長上のような甘い刺激を感じるだけだ。柚木の唇が柔らかく真広の首筋を食(は)んでいる。
 細く鋭い牙が刺さっているはずなのに、キスのような唇の感触しかない。
 しかも柚木が真広の生き血を舐めとるたび、舌の動きにもすごく感じてしまう。
 身体が熱い。
 真広の身体の変化はもう隠しようもなかった。興奮して形を変えている器官は、覆いかぶさっている柚木に知られてしまっているだろう。
 ほどなくして柚木は真広から顔を上げた。
「うっ」
 牙が抜けるとき痛みがあったが、傷口を舐める柚木の舌で拭われるように消えていく。
 ふうっと、柚木が満足げな吐息を洩らした。
「……ありがとう、真広」
 いつくしむような微笑を浮かべた柚木に、ぼうっとしてしまう。
「きみさえよければ、このまま抱いてしまうのに――」
「っ……!」
「そうすれば、もっと気持ちよくしてあげられる」
(やっぱりバレてる!)
「………」
 思わず真広は赤面して、邪気のない笑みを残している柚木の顔を見上げた。
(あれは夢じゃなかったんだ……よな?)
 あのとき、柚木に激しく抱かれた記憶は、思い出そうとするほど曖昧で、翌朝目を覚ましたとき、真広は抱かれた痕跡すらみつけられなかった。だから夢だったことにしてもいいかとも思えてしまう。
 なにしろ男どうしってだけでも抵抗があるのに、なんと相手は《鬼》なのだ。
 真広の《鬼》アレルギーは根深い。
「試してみようか?」
 ぎゃっと叫んで真広はベッドから跳ね起きた。
「え、遠慮しますっ!」
 ファーストキスが男どうしだったのは不可抗力としても、初体験までそうだと認めたら、彼女いない歴十八年の、真広の未来は真っ暗だ。
 とにかくこれ以上、道を誤るわけにはいかない。
「でも」
 と、真顔の柚木の視線は真広の股間へと注がれている。
「これはちょっと、反射というか、違うんで……っ!」
「何が違うのだ?」
「えっと、だから……、すいませんっ、おれトイレ!」
 小学生みたいに宣言して、真広は前を押さえながらバスルームへと駆け込むはめになったのだった。

     ◇   ◇

 翌朝、真広が食堂へ向かうと、廊下まで次兄の征二と柚木の笑い声が聞こえてきた。見れば朝食のテーブルで、ふたりは仲良く歓談中だった。
 もともとアルコールをたしなむ習慣のない征二は、昨夜は遅い時間に戻ってきたようだが二日酔いとはとうぜん無縁である。どの飲み会でもウーロン茶で通しているらしい。
 朝から元気な様子で柚木と楽しそうにしている。
 話題は政治経済――ではなさそうだ。顔見知りのご近所どうしで話すような世間話といったところか。柚木はそつなく征二の相手をしているようだ。
 柚木を見てきのうはあんなに警戒感丸出しだったのに、兄の変わり身の早さに驚くとともに、あまり面白くない気がするのはなぜだろう。
「なんだ、真広遅いな。いつもこんな寝坊なのか?」
「うん……おはよ」
 朝一番から征二らしいセリフに、真広は口ごもりながら、視線の方は柚木の表情を追っている。
 ゆうべのことが恥ずかしくて、いつもの朝より出遅れた真広である。
 あのあと真広がバスルームからようやく出てきたときには、さすがに柚木も気を利かせて姿を消していたのだが。
 柚木は真広と眼が合うと、邪気のないきれいな微笑をひらめかせた。
(……ま、まぶしい)
 赤と銀のメッシュ入りの豪奢な金髪にレザージャケット。いつものビジュアル系な柚木である。
(ゆうべの、何だったんだろうな)
 たしかに『痛くしないで』と頼んだのは真広だったが、それがあんなことになるとは思わなかった。
 しかも――。
『真広、愛している……』
 あの柚木のささやきは、まさか本気で言ったのだろうか。
 柚木は《鬼》だから、普通のひとである真広とは感覚が違うってことも十分あり得る。だいたい真広は男なんだから、愛してるも何もあったもんじゃない。
(でも、おれ、一度は柚木さんに……抱かれたんだっけ? マジで)
「おはようございます、真広さま」
 真広がテーブルの席につくと、満月が真広の好みに合わせてこんがりと焼いたトーストと、ふわふわのプレーンオムレツにグリーンサラダの皿を運んできた。
 そのかたわらで香月が――たぶん香月だと思う。実はいまだに朧との見分けがよくつかないのだ――コーヒーポットを手に、カップになみなみと熱いコーヒーを注いでくれる。
「ああ、ありがとう。香月……だよね?」
「はい。真広さま」
 にっこりと香月が応じる。
(正解だ)
 真広は気をよくして、きゅうきゅう鳴っていた胃袋を満たすべく、いつものようにナイフとフォークを手にした。
 ここで美少女メイドたちにかしずかれることにもすっかり慣れた。
(まあ、柚木さんの式神だけどな)
 そのとき、何か視線を感じて顔を上げると、征二が驚いたような表情でこちらを見ていた。
「ん? なに、兄ちゃん?」
「いや、何でもない」
 征二は慌てたように視線をはずす。
(……ああそうか)
 彼は、満月たちがひとではないとは気づいていないのだ。 
 ナイスバディーのすごい美少女たちに囲まれて平然としている真広を見て、ある種の衝撃を受けているに違いない。
(兄ちゃんは、秋葉原のメイドカフェも知らないだろうし)
 征二の好みがどんなものか真広にはわからないが、雑誌のグラビアアイドル以上のレベルの美少女だちだ。間近で見て何も感じないことはないだろう。
 真広だって満月たちの正体が、実は三体の小さな木目込み人形だと知っているから平気なのであって、知らずに最初にパンツを脱がされそうになったときは心底焦ったものだ。
 柚木の屋敷にいる者たちのほとんどは、ひとではない。
 征二が対面している柚木が《鬼》だと知ったら、兄はどんな顔をするだろう?
 例の毛玉の件で、どうやら兄の征二にも実はモノが少しは見えるらしいことはわかったが、柚木たちの秘密に気づくほどの感覚はないのだろう。
(おれも、ぜんぜんわからなかったしな)
 この《鬼》があまりにも、ひとらしく自然に振る舞っているということもあるが。
 柚木はゆうべのことなんて忘れたかのように、いつもどおりマイペースな雰囲気だ。
 真広はコーヒーカップに口をつける柚木の唇に視線が吸い寄せられる。
 あの唇に恋人どうしがするようなキスをされた。そして、形のいい唇には細く鋭い二本の牙が隠されている。
 夜、《鬼》の本来の姿で部屋にしのんできた柚木は、真広の首筋を咬んで生き血をすすったのだ。
 真広が《鬼》に与えた生き血の量は、たぶんたいしたことはない。柚木が餓えているわけではないと言ったのは事実なのだろう。
 飢えてはいないが、欲しいと言われた。
 《鬼》の養い手である真広は、自分の意思でそれに応じたのだ。
 それだけだと思うのに、なぜだか胸がざわざわする。柚木の唇の感触や、牙が突き立てられたときの感覚が鮮明によみがえり、真広は小さく身震いした。
 ぞくりと背筋を走ったのは、どういうわけか快感に似ている。
 柚木のことは好きなんだと思う。《鬼》だけど信用してもいい気がする。そうでなければ『養い手』などになれるはずがない。
 自分の気持ちが単なる好意なのか、それとも、もっと別のものを含んでいるのか、まだ真広にもわからないのだった。
「一色さま、パンのおかわりはいかがですか?」
 征二に向けられたらしい問いかけに、真広は我に返った。凛とした大人の女性の声。どこかで聞いたことがあるような……。
(き、桔梗さんっ!?)
 声の主を見て、思わず真広は目をむいてしまう。
 年の頃は三十くらい。髪をきれいに結い上げて化粧をした容姿は、大人の色気をにじませた婀娜っぽい美人である。
 桔梗の姿は、狩に出かけるときの若い女になっていた。
「桔梗さん」
 と、声を掛けられた征二は明らかにうれしそうだった。
「じゃあ、トーストをもう一枚いただけますか?」
(嘘っ、……まさか、これって)
 桔梗と話しながら鼻の下を伸ばしている次兄を見て、真広は愕然として思った。
(桔梗さん、兄ちゃんのことを狙っている!?)
 文字どおり獲物として――である。
 征二は桔梗の正体を知らないから、そんなこと夢にも思っていないだろうが。
 桔梗は餓えると、ひとだったときの若いころの姿に戻って狩に出かけ、その色香に誘われた男を捕食するのである。
 もちろん、喰い殺しはしない。
 かつて柚木の養い手だった桔梗は元はひとで、いまでは《鬼》として数百年生きているが、生き血をすすることでひとの生命まで奪うことはよしとしていないのだった。
 だから獲物の男は、多少貧血になることはあっても殺されることはない。
(だけど……!)