東京ヴァンプ【弐】5

 命に別状ないとはわかっていても、身内が餌扱いされるのは気分のいいものではない。
「今日もお出かけになられるのですか?」
 厨房からトーストの皿を運んできた桔梗は征二に訊ねた。
(桔梗さん、普通にしゃべれるんだ!)
 真広は驚いた。
 いつも時代がかった上から目線な口調が、征二には普通の言葉で話している。こうして見ていればまったく現代のアラサーの女性である。
(本当は戦国時代のお姫様なんだけど……)
「ええ、大学時代の恩師がいまこちらの病院にいて、実は東京で働かないかと誘われてまして。今日はその病院を案内してもらうことになってます」
 そう応じる征二は、すっかり桔梗の魅力に取り付かれたような表情だった。
(へえ、それは初耳)
 次兄が東京に来たら、色々うるさく言われそうで真広は歓迎できないと思う。
「そうなんですか。ぜひ東京にいらしてください。弟さんもこちらですし、ごいっしょにこの屋敷に引っ越されてはいかがですか?」
 ぶっと、真広は思わずコーヒーを吹いた。
(ちょ……っ)
 柚木が呆れ顔でそんな真広を黙って見返す。
(もう柚木さん、何か言ってよ!)
「まだどうなるかわからなくて、自分でも決めかねてるんですよね」
 ハハハと笑った征二は、桔梗の提案がまんざらでもなさそうだった。
 この屋敷の主であるはずの柚木は、特にコメントするつもりはないみたいで、そんなやり取りを黙って聞いている。
 桔梗が陰の実力者だというのが本当かどうかわからないが、どうも真広にとっては雲行きがあやしい。
(何かまたややこしいことに……)
「真広さま、新しいコーヒーお持ちしましょうか?」
「ありがとう……満月」
 さりげなくコーヒーカップを回収しにきてくれた満月に、真広は心から感謝した。
 満月の正体が木目込み人形で柚木の式神でなかったら、それはまさしく恋に落ちそうなシチュエーションだった。

     ◇   ◇

「桔梗がきみのお兄さんに興味を持つのは、無理もないことだな」
 歩きながら柚木が何でもなさそうに言った。
 朝食後、柚木は真広を散歩に誘った。真広が何か言いたそうにしていたことはわかっていたのだろう。
 ここは敷地内にある森の小道である。
 さまざまな落葉樹が雑木林のように植えられていて、どこかの静かな里山にいるかのようなのは、柚木が張った結界に守られているせいだ。
 実際は、土塀のむこう側、屋敷のすぐ脇は交通量の多い幹線道路が走る都心である。
「真広と同じように、わずかだがきみのお兄さんも甘い血の香りを漂わせているから」
「えっ! 本当?」
「ああ。彼にも《鬼》の養い手になる素養がある」
「………」
(兄ちゃんにも……?)
 柚木に言われるまで気づかなかったが、征二にもアレが少しは見えるということはそういうことなのだ。
「さすがは兄弟だな」
「でも、歳が離れてるし、性格も顔もぜんぜん似てないけど」
 母方――特に祖母――に似た真広とは違い、ふたりの兄たちは見た目も体格も父方の血を濃く受け継いでいる。
「そうかな? 容姿や体つきはともかく、性格は似ているように思えるが」
「えっ、どこが?」
 真広は兄たちのような理屈っぽい石頭ではないつもりだ。
「柔軟なところ」
「兄ちゃんのどこが――」
「わたしの正体を気づかれたかもしれない」
 さらりと柚木が言った。
「……まさか」
 と、半笑いで真広は応じた。
 あの兄に限ってそんなことあるはずがない。
 自称常識人の征二は、自分が納得できるものしか信じない。黒い毛玉がぼんやり見えていたとしても、強いて『気のせいだ』と片づけているに違いないのだ。
 まして《鬼》である柚木の正体に気づくなんてあり得ない。
「兄ちゃんが《鬼》の存在を認めるわけないと思うけど? 気づかれただなんて、びっくりすること言わないでよ」
 しかし柚木は真顔だった。
「きみのお兄さんは、わたしが彼にとって何か説明のつかないモノと深く関わりあっていることには、気づいたと思うよ」
「……」
「ただ、それこそが《鬼》だとは認識していないかもしれない。わたしが興味深いと思うのは、彼が絶対見えるとは認めないモノを自分の意識からはずしてしまうのではなくて、意識の片隅では、それが依然そこに存在すると無意識に認めている点だ」
 真広は眉をよせて柚木を見返した。
「だから兄ちゃんのことを柔軟って……?」
「そうだ」
「だけど、兄ちゃんが桔梗さんを受け入れるとは思えないよ。おれは兄ちゃんが《鬼》の養い手になれるとはぜんぜん思わないし、だからと言って、桔梗さんの単なる餌にされるのはもっと嫌だ」
(兄ちゃん、桔梗さん見て鼻の下伸ばしてたし……最悪!)
「桔梗が彼を餌だと思ってるって?」
 心外そうに柚木が訊ねた。
「だって桔梗さん、あの姿で兄ちゃんをかまってるし」
 征二を誘惑しようとしている、と真広が考えるのはとうぜんだった。それだけ彼女のあの姿や物腰は魅力的なのである。
 あの堅物の次兄がよろめかないという保証はない。
「……もう少し、桔梗を信じてやってはくれないか?」
 真広が不信感もあらわに言ったセリフに、柚木はそっとため息をついたようだった。
「桔梗は、仮にどんなに餓えていたとしても、見境なくひとを襲うような《鬼》ではないよ」
「それは……たぶん、そうだとは思うけど……」
 自分が柚木の養い手になったことで、いつの間にか身内を巻き込んでいる結果になっているのが、真広としては居心地悪く感じる。
(これまでずっと見えない振りをしていたのに――)
 真広がずっとそうしていれば、次兄の征二にもアレが見えるなんてことだって気づかずに過ごしていられたはずだ。
 たぶん次兄も『気のせい』で済ませられた。
 だが実際は、見目麗しい《鬼》が真広のすぐかたわらにいて、闇色の双眸でじっとこちらを見つめている。
「桔梗も女だということだよ」
「え?」
 意外なことを言われたと思って、真広は柚木の顔を見返した。
「どういうこと……?」
「どうもこうも、桔梗はきみのお兄さんに好意を持っているということだ」
「ええっ! なんで?」
 真広の反応に柚木は苦笑して言った。
「誠実そうな容姿端麗な青年が目の前にいれば、あの桔梗だって、相手に少しでも自分のいいところを見せたいと思うのだろう」
 呆気にとられて真広は訊ねた。
「……それ、もしかして兄ちゃんのこと?」
「そうだが」
「………」
「なんだ、納得いかない顔だな」
「だって――」
 あの口うるさい次兄が、誠実そうな容姿端麗な青年って。真広はそんなふうに兄を見たことは一度たりともない。
「真広は身内だからわからないのではないか?」
「じゃあ、柚木さんはいいの? その……、桔梗さんが兄ちゃんと……どうかなっても」
 口ごもりながら真広は言った。
「いいとは?」
「柚木さんは桔梗さんと前は恋人どうしだったのに、そういうの……気にしないのかなって」
 すると柚木は面白そうな目つきになって言った。
「真広、きみがそれを言うのか?」
「……?」
「たしかに桔梗がひとだったころ、わたしは彼女と恋人どうしのように暮らしていたが、すでに桔梗はひとではなくわたしと同じ《鬼》だ。彼女がほかの人間に惹かれるのを邪魔立てする理由はない。――それより、きみの理屈でいくと真広こそ桔梗の恋敵にならないか?」
「な、なんで!?」
 びっくりして真広は柚木の端整な顔を見る。
 すると柚木は、深い夜のような双眸をふっと優しげにすがめた。
「わたしはすっかりきみに心を奪われているから」
「……っ!」
 臆面もない《鬼》の告白に、思わず顔が熱くなった。
「そ、そんなこと……、おれは柚木さんの『養い手』だし……。それに……男だし――」
 柚木の顔が見れなくなって、真広が視線を足元の草に落とすと、ふわりと正面から抱きしめられた。
 ビジュアル系の姿になっている柚木はレザージャケットだったが、真広の頬に触れる感覚はなぜか狩衣のそれだ。かすかな伽羅の匂いが鼻先をかすめる。
「……好きだ、真広」
 ささやかれた美声に心臓がばくばくしはじめる。
 だけど柚木は《鬼》だから、その言葉を文字どおりとっていいものかどうか真広は迷う。
「お、おれのどこが好きなの?」
「血が甘いところ」
「!」
(やっぱり……)
 あまりにも《鬼》らしい返事に、脱力する。
 これはけっして恋愛などではない。柚木は真広の血に魅せられているだけなのだ。それなのに真広の鼓動は大きく波打つばかりだ。
「――それから」
 と、柚木がささやいた。
「わたしの腕の中で、どきどきしながら震えるところ」
「そっ、そんなこと――」
 ない、と続けかけた真広の言葉は、柚木の唇に吸い込まれた。