東京ヴァンプ【弐】6

第二章 記憶の書庫ふたたび

「まるで迷路だな」
 征二は知らなかったが、彼の弟、真広が感じたのとまったく同じセリフを思わずつぶやいていた。
(さて、困った。どうしたら自分の部屋に戻れるのか……)
 どこまでも廊下が続く柚木の屋敷の奥は、日中なのに夜のように暗い。
 一定の間隔を置いて足元灯が小さくともされ、黒光りする磨きこまれた床が灯りを映している。
 廊下の左右にはそれぞれ、襖がぴったり閉じられた部屋が並んでいて、物音ひとつ聞こえてこない。ときどき征二の足元で、踏んだ床がギシリときしむだけだ。歩いても歩いても、その先にまだ廊下は続いている。
 次の角を回ったら見知った場所に出るのではないかと期待したが、先ほどと同じようにまた廊下が延々と続く。
(どうなってる……?)
 大きな屋敷だとは思っていたが、明らかにおかしい。物理的に考えられない広さだ。
 もしかしたら同じところを堂々巡りしているのかと疑ったが、そうではなさそうだ。襖(ふすま)に描かれた雅(みやび)な四季折々の花々や風景が、それぞれひとつとして同じものがないのだ。
 滞在中は何かと世話をしてくれる桔梗から注意されていたのだが、小さな子供じゃあるまいし、よその家の中で迷子になるなんて、そんなことがどうしたら起きるのだろう。
 それは、朝食後に身支度を整えて、征二は大学時代の恩師に会うために出かけようとしていたときだった。自室として与えられていた座敷を出たところで、ひとりの年配婦人に出くわしたので、この屋敷に関係者には違いないだろうから挨拶をしようとしたら、なぜかそそくさと逃げられてしまったのだ。
「あの……」
 不思議に思いながらその和服姿の背中を見送り、征二は首をひねりつつ玄関へと向かおうとしたら、どうしたことか急に方向がわからなくなってしまった。
 何を言ってるのかわからないかもしれないが、つまり、この廊下を右に行けばよかったのか、それとも左だったのかを思い出せなくなったのだ。
 最初は右だと思って歩き始めたら、どんどん屋敷の奥へと行ってしまって――しかもなぜか廊下がものすごく長くなっていた――、間違えたと思って引き返したはずなのに、いつまでたっても自室に戻れない。
『屋敷の奥へはひとりでおいでになりませんよう』
 桔梗に言われたとき、他人の屋敷の中を勝手に歩き回るつもりなどなかった征二は、奇妙なことを言う……と、違和感をおぼえたことを思い出す。
 つまり、何が起こっているのかは不明だが、いま征二がおちいっている状況を危惧してのことばだったのだ。
(とりあえず、落ちつけ)
 征二は自分に言い聞かせ、さっきから握りしめていたスマホの画面に視線を落とした。
(やっぱり圏外か)
 こんな都心の真っ只中で圏外というのが、そもそもおかしい。故障かもしれない。
 屋敷の中でさ迷っているとは間抜けな話だが、同じ敷地内にいるはずの弟に恥をしのんで助けを求めようと決意した征二は、落胆のあまりため息をついた。
 ためしにアプリのGPSも起動してみたが、自分の現在地が表示されるはずの画面は、何もない真っ黒な背景の中心に青い点が見えるだけだ。
 軽くパニックを起こしかけて、征二は冷静さを取り戻そうと意識的に深く息を吸い込んだ。
(そうだ。おれはあのふわふわした弟とは違う)
 九歳年下の弟の真広は、子供のころからちょっと変わっていた。
 迷信深い祖母に特にかわいがられていた影響なのか、幼いときは見えないものにおびえたり、そこにいない何かに話しかけたりで、兄としては弟の将来が非常に不安だったものだ。
 親と同じ医者になるのが当たり前と厳しく教育された自分たち兄のふたりとは違い、歳の離れた末っ子に両親は甘くて、真広はまわりと競争するという感覚もなく、マイペースでふわふわしたヤツになってしまった。
 そのうえ、ちょっとオカルトがかっている。
 真広は中学生ぐらいのときには、目に見えないものについてもう何の素振りを見せなくなっていたが、その存在は信じて疑っていないようだった。
 征二は非科学的なことは信じない。
 そこにないはずのものが何か見えるように思えるのは、もちろん気のせいだ。
 生まれ育った京都という土地柄、伝統行事や昔からの風習やら、日常に根ざしたものは色々あるが、征二はそれを単なる文化として見ているだけで、オカルトなんて眉唾物だと思っている。
 少なくとも、ここに来るまではそう信じていた。
「さて、どうしたものか……」
 大学時代の恩師との約束があるのだが、不思議なことに腕時計の時間はさっきから同じ時刻をさしたままだ。秒針は動いているのに時が進まない。ならば、これも故障だろう。
 先方にはアポイントに遅れそうだと連絡したいのだが、どうにも手詰まりだ。
 内心途方に暮れながら、征二が次の廊下の角を曲がったときだった。目の前に重厚な造りの木製の引き戸が現れた。これまで通りすぎてきた襖の座敷とは違う部屋だ。
 しかも、中からひとの気配と話し声がする。
『――嘘つき! 怖くないだなんて、おれのこと守るだなんて、そんなこと……っ、どうして……!』
(えっ、真広か?)
『おれをだまして、どうするつもりだった!』
 間違いない。弟の声だ。
『待て……、違うんだ、真広』
(言い争っている相手は、……柚木さんか?)
 尋常でない様子に思わず征二は引き戸に手を掛け、開け放った。
「真広っ!」

     ◇   ◇

 離れにある洋館の自室で、ベッドに寝転がってスマホをいじっていた真広は、誰かに呼ばれた気配で起き上がった。
 ドアを開けると桔梗が神妙な顔つきで立っていた。さっきの食堂での若い姿ではなくて、いつもの桔梗ばあさんの姿だ。
「征二殿は、……来ておられぬな」
「兄ちゃん? 来てないけど。たしか出かけるって言ってなかった?」
「そうじゃ……が」
 桔梗にしては歯切れが悪い。
「兄ちゃんがどうかしたの?」
「わらわのせいかもしれぬ」
「は?」
(嘘っ、桔梗さん、兄ちゃんに何かしたのか!)
 朝食のときに桔梗とうれしそうに話していた征二を思い出し、即座に真広は思った。
「征二殿にこの姿を見られてしまって、つい素知らぬ振りをした」
「え……」
 困っているらしい桔梗を見て、真広はドギマギしてしまった。
(お、乙女だ……、桔梗さん)
 意外すぎる。ギャップ萌えだ。
「だいじょうぶだよ。うちの兄ちゃんニブイから、それが桔梗さんだなんて気づかないから」
 自分でも気づかなかったことは棚に上げて真広は言う。
 ところが桔梗の返答は予想外だった。
「征二殿は行方知れずじゃ」
「てっ! なんで、そうなるの?」
「――屋敷の敷地の結界から出て行った気配はないな」
 と、柚木が桔梗の背後から現れた。
「柚木さん、どういうこと? 何があったの?」
「きみの兄さんは書物庫あたりに迷い込んだらしい」
「ええっ!」
(あの書物庫か!)
「すまぬ。とっさに結界の狭間に身を隠した」
 と、桔梗がうなだれる。
「桔梗さん、えっと……」
 申し訳なさそうにするのに驚き、リアクションにとまいどいながら、真広は頭の中で状況を整理する。
 つまり、あの柚木の記憶を封印している書物庫へと通じる廊下で、征二は例の複雑に重なった結界の隙間に落ちてしまったということだろうか。
 柚木の過去何百年間の記憶は、柚木が人間らしく生活するために、書物庫に五十年ほどの単位に区切って厳重に封印されている。いわばそのセキュリティのために周囲には複雑な結界が張り巡らされているのだ。
 真広が書物庫に行ったときは柚木に案内されてのことだったので、道筋を間違えて異次元に飛ばされるようなことはなかった――真広は柚木の告白にショックを受けて、手違いで柚木の記憶の中に飛ばされはしたが。それも飛ばされたのは意識だけで、身体はちゃんと書物庫にいたのだ。
「そう、身体ごと行方不明だ」
 真広の考えを読み取ったかのように柚木が言った。
「普通の人間が落ち込むような場所ではないはずなのだが」
 思案顔の柚木が冷静に言った。
「そんな、助けに行かないと」
 焦る真広に、柚木は安心させるような笑みを浮かべた。
「もちろん、そのつもりだ。真広にも手伝ってもらいたい」
「おれにできることがあれは何でもするけど――」
 《鬼》は見えるが、これといってスキルのない真広に何ができるだろう。
「真広はわたしの近くにいてくれるだけでいい。きみの力は共感能力だ。征二くんがどこへ飛ばされたかはまだわからないが、きっと捜し出せる」
 柚木の真摯な双眸に引き込まれるように、真広はうなずいた。

     ◇   ◇

 深い緑の木立の中でぽっかりと目を開いた征二は、呆然として辺りを見回した。蝉しぐれがさかんに降りしきっている。
(……どこだ、ここは……?)
 草と土の匂い。日差しを浴びた小さな羽虫が、キラキラと光りながら目の前を通り過ぎていく。どこかで鶏の鳴き声がする。
 小川のせせらぎに沿って小道を下っていくと、視界が開けて小屋のような粗末なつくりの小さな民家があった。庭先には茶色の鶏が数羽、土をほじくっては歩き回っている。
「……」
 なぜか頭がくらくらする。
 そうだ。ついさっきまで柚木の屋敷にいたはずだが。
 なんだか記憶があいまいだ。
(なぜ、おれはここにいる? そもそもここはどこだ?)
「そこのもの、何奴じゃ!」
 背後から掛けられた鋭い女の声にぎくりとしたが、声に聞き覚えがある気がした。征二は一瞬固まると、ゆっくり振り向いた。
 野菜を入れた竹かごを抱えて、粗末な野良着をまとった女が警戒感もあらわに身構えている。征二は目をみはった。
「――桔梗さん?」