東京ヴァンプ【弐】7

     ◇   ◇

 真広が柚木の記憶の書物庫に来たのはこれが二回目だ。前回は柚木にその正体を明かされたときで、柚木が《鬼》だと初めて知ってパニックを起こした真広の意識は、封印がゆるかった柚木の戦国時代の記憶へと飛ばされてしまった。
 そこで真広は、いまよりまだずっと言動も見かけも《鬼》らしかった昔の柚木と、戦国時代のお姫さまだった桔梗とのなり染めを目撃することになったのだ。
「……やはりな」
 暗い廊下を歩いてたどり着いた先の書物庫の、重厚な木製の引き戸を見るなり柚木は言った。
「結界に小さな傷の痕跡がある」
「どういうこと?」
「誰かがここをすり抜けたってことさ」と、柚木。
「誰かってのは、もしかして兄ちゃん?」
 真広は恐るおそる訊いてみる。
「そうとしか考えられないな。きみの兄さんは本当に普通の人間なのか?」
 《鬼》である柚木に真顔で訊ねられて、真広は頬を引きつらせた。
「おれよりはるかに普通だよ! オカルトとは無縁の世界の自称常識人だってば」
「ふうん」
 と、柚木は何か考えているふうだったが、
「ああ、戻って視てみよう」
 と、思いついたようにすたすたと暗い廊下を引き返して歩いていく。
「え、戻るってどこへ?」
 置いていかれては大変だと、真広は急いで柚木の背中を追う。
「きみの兄さんがここに来た時刻へ」
 真広は柚木の言うことがわからないが、何しろ此処(ここ)、柚木の屋敷の深層は時空の入り組んだ迷宮だ。迷子にはなりたくないので、それ以上余計な口はきかずに真広は後をついて行った。
 小さな足元灯のともる黒光りする廊下を歩いて、次の角を右へ、そして突き当たり左へ。またしばらく歩いて左へ――。そのうち方向感覚がなくなって、真広はひたすら柚木の後を追うことに集中した。
 その間(かん)、真広の感覚では五分ほどだったか。
 暗がりをぐるぐると歩き回って、やがてふたりはふたたび書物庫へと続く廊下に出た。
「ほら、あれだ」
 柚木が指ししめす方を見れば、兄の征二が引き戸の前に立っているではないか。
「あっ、兄ちゃん!」
 思わず駆け寄ろうとして、真広は柚木に止められた。
「あれはいわば彼の残像だ。別の時空間をこちらから透かして視ているだけだから、触れることはできないよ」
「まえに柚木さんの過去の記憶をのぞいたときみたいに?」
「そんなところだ」
 柚木の言うように征二にはこちらの声も姿もわからないようだった。
 真広のすぐ目の前で、征二は何か焦った様子で『真広っ!』と、叫ぶと、書物庫の引き戸を勢いよく開け放った。
 刹那――まばゆい閃光が空間を一気に満たした。
「……っ!」
 反射的に目をつむった真広が目を開いたときには、何事もなかったように暗い廊下に書物庫の重厚な木製の引き戸が閉じられたままたたずんでいた。
「……柚木さん、いまの――」
「ああ、飛ばされたな」
「おれのこと呼んでたけど」
「きみの兄さんは、書物庫で真広がわたしから逃げようとしたときの時空間に居合わせたのだろう。ちょうどいまわれわれがきみの兄さんを視ていたときのように、彼にとっては幻のようなものだったのだが」
 どうやら自分は、期せずして征二の行方不明に加担していたようだ。
 真広の背中を嫌な汗がじんわりと流れ落ちた。
「飛ばされた先は、あの時代だな」
 柚木は眉間にしわを寄せてつぶやいた。柚木本人もなにか思うところがあるのだろう。
 戦国時代の《鬼》らしい柚木が生きていた時代だった。現代の大人の柚木と比べると真広の眼から見ても、同一人物とは思えないような『やんちゃな』柚木だ。
「問題は、なぜ身体がないのか、というところだ」
 真広が柚木の記憶の中へと飛ばされたときは、書物庫の中で倒れていただけなので、リアルな夢をみてきたかのようだったが、征二が身体ごと飛ばされたというのはどういうことだろう。
「どうするの?」
 柚木ならなんとかしてくれるだろうと信じているが、不安な眼差しで真広は《鬼》を見上げた。
「まずは件(くだん)の時代に行って、征二くんの姿を捜そう。今度はきみが案内人だ」
「おれが?」
「そう」と、柚木は書物庫の引き戸を開けると真広を中へ招きいれた。和綴じの書物やら巻物やらが、ぎっしりと詰め込まれた棚が壁の三面を覆っている。
 柚木は迷わず、そのうちの一冊を抜き出した。
「これだ。真広、こちらに来て床に座ってくれないか」
 真広が柚木のかたわら、ひんやりとした板の間に直接腰をおろすと、柚木の腕が真広の身体を抱き寄せた。
「っ、柚木さん……」
 闇色の双眸がじっと真広を見つめてくる。
 柚木に間近で凝視されると鳥肌が立った。人外の美貌に心奪われるだけでなく、このまま捕食される予感に戦慄をおぼえる。正直言うと怖い。
 柚木は特別だと頭では思うのだけれど、本能的に身体が逃げかけるのだ。
「真広……」
 低くささやかれて、真広の心臓はどきどきと波打ち始める。
「咬んでもいいか?」
 柚木にはつい一昨日に生き血を与えたばかりなので飢えているわけでもなさそうだが、切なそうな声色で訊ねられると真広は嫌だとは言えなくなる。正直痛いのは嫌だけど、《鬼》の養い手として柚木に接することは真広にとっては、ちょっとおかしな表現かもしれないが、栄誉なことなのだ。
 こうして柚木のような無敵の《鬼》を生かすことができると考えると、真広は自分がすごく特別な存在になったように思えてくる。
(厨二病か?)
 それはともかく。
「いいよ」と、真広は視線をそらしつつ答えた。
 柚木の瞳をまともに見てしまうと、おかしくなるとわかっているからだ。どきどきするだけではなくて、身体が熱くなって呼吸も乱れて。
(つまり……)
「感じているのか?」
 ドクンと自分の鼓動を感じて、柚木の双眸をまともに見てしまった。闇色の吸い込まれそうな瞳――。
 真広はあわてて眼をぎゅっと閉じる。
 ふわりと身じろいだ柚木の気配の直後、首筋に細く鋭い痛みが起きた。
「っ……!」
 錐(きり)で刺されたような痛みに思わず身を硬くする。
 なんとか苦痛の声を洩らさずに耐えた真広を、柚木はなだめるように抱きしめた。
 真広の首筋から流れ出す血を柚木が丁寧に舐め取ると、痛みはすぐに消えていった。
 真広の鼻先を柚木の着物に焚き染められている高価な伽羅の香の匂いがかすめる。普段の柚木の見た目はヴィジュアル系のコスチュームなのに、実際はなぜか狩衣の肌触りなのだ。
「真広」
 名を呼ばれて顔を上げる。柚木は真摯な表情でこちらを見ていた。
(ちょっと舐めたぐらいの量しか飲んでいないのに、もう満足したのかな?)
 すると、柚木はこちらが予想していない行動をした。
「え、ちょっと!」
 真広の目の前で、柚木が右手の人差し指で彼の左手首の内側にすっと一文字を引くと、出来た傷からみるみる血があふれだした。
「飲んで」
「えぇっ!」
 仰天した真広は目を見開いたまま、血が滴る柚木の手首と顔を交互に見つめる。
「ど、どうして……?」
 《鬼》に血を与えて、換わりに《鬼》の血を飲んだら――。
 確かこれは柚木が死にかけていた桔梗を救うために《鬼》にしたときのやり方ではないか。
(そんな……、おれ、まだそこまで心の準備が!)
「や、やだよ。おれ、そんなっ」
 確かに柚木には親しみを感じているし、《鬼》の養い手になったことも後悔していない。でも、それとこれとは別問題だ。真広は自分自身が《鬼》になる可能性など考えてみたこともなかった。
「落ち着け。勘違いだ。……とにかく飲んでくれないか」
 と、パニックに陥りかけている真広の目前に、柚木はたらたらと血が流れる手首を突き出す。
「舐めるだけでもいい」
「ぎゃっ!」
 血まみれの手首を口元に近づけられ、真広は悲鳴を上げて仰け反った。自分の血を見るのはだいじょうぶでも、ひとの血はまったくダメなのだ。ましてや、これを「飲め」と言われても――。
(ムリ、ムリっ!)
 ため息をつく気配がして柚木が手首を引っ込めると、視界から血が見えなくなった。
 ホッとして力を抜いた真広の後頭部を押さえて、柚木がいきなり口づけてきた。
「んんっ……!」
 強引に真広の口を開かせると、柚木は口に含んでいた自分の血をその中へと流し込む。
 鉄さびた温かい塩味が拡がって、とっさに吐き出そうと激しくむせたが、柚木がそれを許さない。
 腕の中でばたばたもがくうちに、ついにごくりと飲み込んでしまった。