濡れた落葉や小枝を踏みしだいて、喘ぎながらもつれるような足を必死に動かして山道を上る。貴幸(たかゆき)の頭上には冴えた月が煌々と輝いていて、無慈悲に行き先のわからない道を照らし出す。吐く息が白い。
「なあ吉野(よしの)、試験休みにうちの別荘に遊びに行かないか?」 と、誘われたときに貴幸が最初に思ったことは、やっぱり加賀も金持ちのお坊っちゃんだったんだなあ、ということだった。 貴幸が通う私立大学は、昔からいわゆる良家の子女が集まる名門と呼ばれる大学だった。学生のほとんどは中学からエスカレータ式に、高校、大学と進学していた。 貴幸のように公立高校から一般入試で入学してくる人間は他所者であって、決して彼らの仲間に入ることはできないのだった。もとより普通のサラリーマン家庭に育って、ごく平均的な生活水準だと自覚している貴幸にとって、彼らの金銭感覚を始めとしたすべての生活スタイルが、自分のとは懸け離れたものであることは否めない事実だ。 しかし、大学の選択を誤ったかなと貴幸が感じたのは入学した当初だけで、カルチャーショックに慣れてしまうと貴幸はそれなりに大学生活を楽しめるようになっていた。この大学を選んだ動機も、伝統があって大学の設備や環境が文句なしであることや、名門大学であるブランドが、もしかしたら就職時の助けになるかもしれないといった目論みがあってのことで、決して不本意な結果によるものではなかったからだ。 加賀直純という友人ができたことも、貴幸の大学生活を充実させる大きな要因のひとつだった。一般入試で入学してきた学生は貴幸と同様、自分たちは部外者という意識があってか、大学内でも一般入試の学生どうしが集まる傾向にあった。親から買い与えられた高級車を乗り回し、ゴールドカードでろくに値段も確認せずに買い物をする彼らを目の当たりにするにつけ、羨望がない交ぜになった呆れた視線を互いに交わすとき、庶民どうしの連帯感のようなものが生まれているのかもしれない。 そもそも彼らはまとっている匂いが違うのだった。人種が違うと言い換えてもいい。違う匂いのする彼らと無理に同席するよりも、同じ匂いのする人間と一緒にいた方が気が楽に決まっている。だから貴幸も入学して間もなく、同じ講議を取っていた加賀から教室で声を掛けられたときは、てっきり加賀が一般入試組だと思ったのだ。真面目そうだな、というのが貴幸の第一印象だった。金髪頭の見た目がちゃらちゃらした学生が多い中で見掛けたから、余計にそう思えたのかもしれない。 加賀は男っぽい端正な面差しで、硬派な雰囲気のある男だった。中学からずっと剣道をしていたためなのか、いつも背筋をぴんと伸ばして身のこなしが機敏で、他の学生の中にいても異質な感じで際立って見えた。 しかし話してみると堅物そうな見かけとは違って、結構面白い男だということがわかった。真面目な部分と遊びの部分が絶妙なバランスで加賀の中で調和していて、ユーモアセンスを持ち合わせながら至極常識的な、自分と同じ十九歳とは思えないような大人だったのだ。 貴幸は加賀と急速に親しくなっていった。加賀が実は一般入試組ではなくエスカレータ組で、父親が開業医で母親は弁護士だと知ったときはさすがに驚いたが、それまで自分が持っていたエスカレータ組に対する偏見を反省するとともに、貴幸は加賀という友人を持つことに誇りすら抱くようになっていた。 それまでにも貴幸には親友と呼べる存在は確かにいた。高校までの友人の中に今でも仲のいい奴はいる。しかし加賀に対する気持は、単に一緒になってばかをやる友人というよりも、もっと別のところに重きを置いている感じがする。大袈裟な言い方かもしれないが、加賀とは自分の人生の時間をずっとこの先も共有していたい、と言えばぴったりくるだろうか。大学を卒業して就職し、結婚して家庭を持っても、ずっと加賀とは繋がりを持っていたい。親友という表現は、今では貴幸が加賀という男について考えるときにまっさきに思い浮かぶことばだった。 「別荘!?」 貴幸が眼を丸くして訊ね返すとそんな反応を予想していたのか、加賀は整った口元にばつの悪そうな苦笑を浮べて言った。 「うちの祖父の代からの持ち物で、軽井沢なんだ。ベタなアレでなんだけど……」 後半部分の加賀の言い方に吹き出しかけて、貴幸は応じた。 「もちろん行くよ。おれ別荘なんて初めてだし」 前期の期末試験は、貴幸たちの大学では夏休み明けに行われる。試験期間が終わった十日間程が、採点のため成績発表まで休みとなるのだ。一般入試で入学した貴幸は、大学受験を経験してきただけのことはあって、レベル的に大学の授業で苦労することは少なかった。日頃真面目に講議に出ている加賀も同様で、エスカレータ組で普段は遊び歩いている学生たちが戦々恐々としている間、貴幸と加賀は試験休みと称して季節外れのバカンスを楽しめるのだ。 軽井沢の別荘までは加賀の運転する車で行った。『親父の車だから』と、貴幸を迎えに来た加賀が高級車を乗りつけた理由を説明するあたり、加賀は貴幸が意識していることを気にしているらしい。しかし一週間の予定だったから、その間加賀の父親が車を使えないのは不便だろう。当然彼の父親が他にも車を所有していると考えるのが自然だった。そこまで加賀が思いついていない所が貴幸には何だか微笑ましく思える。 東京を離れて軽井沢に近づくに連れ、辺りの風景はどんどん秋を深めて行き、午後遅くになって加賀の別荘に到着する頃にはすっかり晩秋の趣きだった。幹線道路から外れて私道をしばらく登ると、落葉樹林に囲まれた瀟洒な二階建ての洋館が現れた。あまりにも『別荘』のイメージ通りで、車を降りた貴幸は、あんぐりとして玄関ポーチで建物を見上げた。 「古くてびっくりした? もともとは昭和初期の建築なんだ」 運転席から降りてきた加賀が説明した。 「内装は新しいから大丈夫だと思うよ」 貴幸は加賀に促されるまま、鍵を開けられた玄関の重厚な両開きのドアをくぐった。 加賀の言った通り、古風な外観とは打って変わって、真新しい内装はオープン仕立ての高級リゾートホテルのようだった。玄関ホールを抜けて右に折れると、本物の暖炉を設(しつら)えたリビングだった。たった今準備が整えられて、お客の到着を待っていたような広いダイニング続きのリビングルームを見て、貴幸が面喰らっていると加賀が言った。 「管理人さんにおれたちが来ることを言ってあったから」 笑いながら奥のキッチンまで貴幸を引っ張って行き、加賀は大きな冷蔵庫のドアを開いて見せた。 「――ほらね」 冷蔵庫の中には、様々な食材が詰め込まれていた。フリーザーには調理済みらしい料理の容器が並んでいる。 「……すごいな」 貴幸が思わず感想を洩らすと、 「一週間、食べ放題」 加賀が端正な容貌にニヤリと悪戯っぽい笑みを浮べた。 「――まあそれにしても、入れ過ぎだよな。田辺さん、おれたちのことどんな大喰らいだと思ったんだか……」 田辺さんと言うのが別荘の管理人の名前らしい。地元のひとで、別荘のメンテナンスを普段任せているのだった。 荷物を解いてからオープンデッキでくつろいだ。色づいた秋の陽射しが落葉樹の林を照らして、さざめく風が紅葉した葉を揺らして行く。 「静かだな」 加賀のいれてくれた熱いコーヒーを飲みながら貴幸が言うと、「ああ」と満足そうに加賀が答えた。 「――夏より秋の方が好きなんだ。夏は涼しくいいんだが、人も多くて」 昔から軽井沢と言えば避暑地で有名だが、最近は新幹線の開通やら、駅前のアウトレットモールやらで夏の間は観光客がすごいらしい。 「吉野(よしの)を誘うなら秋にしようと思ってた」 と、加賀は貴幸の方を向き直って言った。 ――急に思いついたことじゃなかったんだな。 貴幸はそんな感想を結んだ。何をする訳でもなく一週間、山あいの別荘で若い男がふたりきりで顔を突き合わせてのんびり過ごすなんて、よく考えてみれば妙な話だったが、目の前でゆったりとコーヒーカップを口元に運ぶ加賀を見ていると、それも悪くないなと思えてくるから不思議だ。 加賀はバーガンディー色の薄手の上質そうなセーターを着ていた。姿勢が良いためか椅子に座った姿がモデルのように決まっていて、男の眼から見ても貴幸は一瞬気を取られた。百七十センチ代の貴幸と比べて特別に長身という訳でもないのに、加賀の端正な容貌と落ち着いた雰囲気は酷く存在感があって、大人の男の匂いがした。 「なに?」 貴幸の視線に気づいたのか加賀が訊ねた。加賀の冴えた瞳が不思議そうに瞬く。 「いや、何でもない」 意味もなくどぎまぎして、貴幸は慌てて視線を外した。 夕方、加賀は暖炉に火を入れた。東京よりも季節が先に進んでいるらしいここは、日が暮れると急に寒くなった。もちろんエアコンもあるのだが、本物の暖炉の火は眼にも暖かく、燃える木の薫りがリゾート気分を助長した。 「今夜はシチューだ」 と、加賀はうれしそうに言った。 フリーザーに用意してあったものを解凍すると、それは本格的なビーフシチューだった。赤ワインをふんだんに使ってじっくり煮込んだんらしいそれは、貴幸が初めて口にするようなおいしさだった。 「これも管理人さんが作ったの?」 「うん、田辺さんは以前はどっかのレストランで調理人をしてたらしい」 「へえ、引退してるなんてもったいないな」 率直な感想を述べて、貴幸は再び料理に舌鼓を打ち。 「もっと飲むだろ?」 加賀に勧められてワインのグラスを空けた。 ブルゴーニュ産の濃厚な赤ワインだった。『親父のワインセーラーからくすねてきた』と、真面目そうな顔つきからは想像できないようなことを言って、加賀は貴幸にワインのボトルを見せて笑ったのだった。 新たにワインを注がれるグラスを見つめ、加賀のセーターの色と同じだな、と貴幸は酔いの回り始めた頭で考えた。それからバーガンディーというのは、ブルゴーニュの英語読みかと気がついて、貴幸は血のような暗い赤色をぼんやり見つめた。 こめかみがずきずきする頭痛を感じて貴幸は目が醒めた。仄かな灯りに照らされた見慣れない天井を見て、貴幸は加賀の別荘にいることを思い出す。飲み慣れないワインを飲んで悪酔いでもしたのだろうか。身動きしようとして違和感を感じ、貴幸は一気に覚醒した。 「……ッ!?」 あまりのことに一瞬声が出なかった。 貴幸は全裸でベッドのシーツの上に寝かされていたのだった。身体の自由がきかない理由はすぐにわかった。貴幸の両手首にはそれぞれ手錠がはまっていた。万歳をするような格好で手錠の先が貴幸の頭上のどこかに固定してあるようだった。両足首にはどうやら革製の足枷がはめられていて、禍々しい鎖が貴幸の両足を大きく拡げて、広いベッドの足下の支柱へとくくりつけられていた。 一体これはどういうことなのか。自分が眠り込んでいる間に何が起きたのか。加賀はどうしたのだろう? パニック寸前に貴幸は叫んだ。 「加賀! 加賀っ!」 「――ここにいるよ」 と、落ち着いた加賀の声が聞こえた。声のした方へ貴幸が必死に頭を巡らせて見ると、加賀はちょうど部屋に入って来たところのようだった。 「寒くない? もう少し暖房の温度を上げようか」 加賀は貴幸の枕元に来て優しげに訊ねた。 「なっ……、何なんだよ、これはっ!?」 問い質してみたものの、平静そのものの加賀を見て、ショックのあまり貴幸は頭からすっと血が引くような感触を味わった。自分をこんな目に遭わせたのが他でもない加賀自身であると悟ったからだ。 答えずに加賀は、貴幸の手首にはめられた手錠の下の、リストバンドのずれを直した。手錠をつけられたまま暴れて、手首が擦れて怪我をするのを防ぐためらしかった。 「貴幸……」 と、加賀が初めて貴幸のことを名前で呼んだ。いつもは吉野と名字で呼ばれていた貴幸は驚いて目を見開いた。 「ごめん」 小さく加賀は呟いて貴幸の顔を覗き込んだ。 「ワインに、睡眠薬入れた」 「どうして……」 貴幸は唇を震わせた。 「一週間――」 と、加賀がささやくように言った。 「一週間だけ、おれのものになって欲しい」 愕然として貴幸は加賀の顔を見返した。加賀は男らしい眉を寄せて、思いつめたような苦しげな表情を浮べていた。 「それは、どういう……」 貴幸は言われていることがわからなかった。加賀のものになるとは、どういうことだろうか。 「そうしたら、もうおれは、二度と貴幸の前に現れないから……」 泣き出すのではないかと貴幸には思えた加賀が手にした物を見て、しかし、貴幸は我が目を疑った。『猿ぐつわ』? 何と呼ばれる道具なのか貴幸は知らなかったが、頭を振って逃れようとする貴幸の顎を押さえつけて、加賀は貴幸の口に穴のあいたボールのような物を押し込んで噛ませ、それに結わえられていたベルトを後ろでがっちりと固定してしまった。貴幸の抗議の声は、くぐもった呻き声にしかならなかった。 それから、ベッド脇で加賀がゆっくりと着衣を脱ぎ始めた。バーガンディー色のセーターを脱ぎ、アンダーシャツを脱ぎ捨てるのを、呆然と貴幸は見守っていた。穿いていたジーンズを脱ぎ去り、アンダーウエアを下ろしたとき、貴幸は自分の物より大振りの加賀の中心が、すでに勃ち上がって大きくしなっているのを見た。 信じられない光景に、貴幸はただ目を見開いていた。ぎしり、とベッドのスプリングを軋ませて、全裸の加賀がベッドに上がって来た。括りつけられて逃げられない貴幸の身体に、ゆっくりと覆い被さって来る。細かく震える同性の硬い肉の感触に、貴幸は絶望感で目の前が暗くなる。加賀の芯を持った熱い茎を下腹部に擦りつけられて、おぞましさのあまり貴幸は嗚咽を洩らした。 暖房の効き過ぎた部屋の外では、しんと冷えた夜が静かに更けていく。 |
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