ゼロの距離

「へたくそッ! ヤメちまえッ!」
 腹式呼吸の大音量で怒鳴られて、稽古場になっているBスタジオの壁一面に貼られている鏡が、ビリリと震えた気がした。
 月原(つきはら)晃(ひかる)は、字面を追っていた台本から眼を上げた。ひとからよく『デリケートそうな感じ』と評される色白で繊細な造作の容貌の形のいい眉をわずかに寄せて、罵声を浴びせられその場に立ち尽くしたままの新人研修生の蒼白な顔をちらりと見やる。
 ――やっちゃったな。
 晃は内心で密かに嘆息を洩らした。
「ああ、もうッ、ムリだムリだ。おまえら、やるだけ時間の無駄だ!」
 超絶に機嫌の悪い三十代半ばの男性講師は吐き捨て、手元の台本を片付けると椅子から立ち上がった。そしてその場にいた晃たち十数名の研修生を一顧だにせず、足音も荒々しくそのままスタジオを出て行ってしまった。
 土曜日、午後一番のレッスンでの出来事だった。
「………」
 ぽかんと全員で講師を見送り、鏡に映った自分たちのマヌケ面に気づいたとき、晃は鏡越しに同期の宮本(みやもと)岬(みさき)と眼が合った。
「あーあ。レッスン放棄かよ」
 精悍に整った容貌に不快さを露にして、岬はこれ見よがしに呟いた。岬の苛立ちは明らかに目前の怒鳴られた新人研修生に向けられていた。
 七月の上旬。今クールの舞台実習のレッスンは今日が初日だった。さっき稽古場に入って初めて手渡された台本の本読みをやっていたところだったが、晃の目から見ても確かに怒鳴られた新人研修生はまるでなっていなかった。まず何よりも第一に、声が全然出ていなかった。本人はそれなりに真剣にやっているつもりだったろうが、いかにも素人っぽいただの音読で、講師が苛ついていたのは晃にもわかっていた。
 しかし在籍数年の晃や岬たちと違って、養成所に入ったばかりでまだレッスンになれていない新人には、いきなり講師が満足できるレベルを要求するのは酷というものだろう。
「――つうか、おまえやる気あンの?」
 今度ははっきりと、講師に怒鳴られた新人に向けて岬が言った。
 まだ高校生だろうか、新人くんはアイドル系のかわいらしい容貌の唇を噛みしめ、黙ったまま岬の険悪なムードを受け止めた。
「もう、いいだろ……?」
 見かねて晃は岬に声を掛けた。
「黒沢先生のアレは今に始まったことじゃないんだから」
 舞台実習の講師――黒沢は、気難しいので有名だった。もともとは役者で最近は演出も手掛ける黒沢は、舞台の世界では広く認められているのだが、気分にムラが多くて酷く扱い難かった。いい役者が必ずしもいい指導者であるとは限らないのだ。
 少なくとも黒沢が指導者向きではないだろうというのは、ここの研修生としてキャリアの長い晃の率直な感想だ。
「遊びでやるなら、どっかよそいってくれ」
 言い捨てて、岬もスタジオを出て行った。空いてしまった時間を使ってダンスの自主練習でもするつもりだろう。
「こえ――ッ……」
 岬が消えてしまうと、その場に座って成り行きを見守っていた残りの研修生たちからそんな呟きが洩れた。
 晃の知らない顔が多いから、ほとんどは新人たちだろう。晃の経験から言うと、一年後には今ここにいる半数以上が辞めていなくなっているはずだ。
「あまり気にしなくていいから」
 と、その場の新人たちに言ってやって、晃はちょっと息を吐く。新人たちの群れの横には三期後輩の石井巧がいて、浅黒い顔に苦笑を浮かべていた。晃の視線を捕らえると肩をすくめる。
 ばらばらとスタジオを出て行く人波に混じって立ち上がり、石井がこちらに来た。
「月原先輩、最近調子どうっスか?」
 体格のいい石井は大きな身体を縮めるようにして晃の傍らに立った。
 晃の身長は一応百七十センチ台にのっているが、石井は晃より十センチほど高くて、細身の晃より横幅もあるせいか、側に立たれると大きいなあ、という感じがする。
「どうって、相変わらずだよ。そう言うおまえはどうなの?」
「はあ、エキストラばっかです。機動隊とか制服警官とか……」
 石井には悪いけど、晃はくすりと笑ってしまった。ガタイのいい、いかにも体育会系ルックスの石井は、いっそのこと本物になれるんじゃないだろうかと思わせる雰囲気がある。晃は石井がこんな芸能プロダクション所属のタレント養成所にいることの方が、不思議な気がするほどだ。
「おれも似たようなもんだよ。最近は再現ドラマしか演ってないし」
 バラエティ番組などの合間によく挿入される再現ドラマは、ちゃんと芝居をさせてもらえるだけエキストラよりもマシな気もするが、演じている役者の名前が出るわけでもなく、ギャラもエキストラに毛の生えた程度だ。
 そのうえデフォルメしすぎのベタな芝居が要求されることが多いので、晃はあまり好きではない。
「ホント、厳しいっスよね――っ」
 同病相憐れむ、みたいな口調で石井が言った。
 晃たちが所属してる『ペガサスプロモーション』は弱小の芸能プロダクションだ。定期的にオーディションをやっていて、付属の養成所の研修生を募集している。
 研修生の数は常時二百名ほど。どんどん募集しても全体の人数が増えないのは、それだけ辞めていく人間も多いからだ。養成所カリキュラムの修業年数は最短二年で、無事卒業できると『ペガサスプロモーション』専属のタレントとしてプロ契約ができる。だからタレントを目指す志望者は後を断たないのだけれども、現状はというとそれほど生易しいものではない。
 まず新人研修生のおよそ半数が、最初の一年以内に脱落する。「想像していたのと違っていた」とか、「他にもっとやりたいことができた」とか。理由は色々だろうけど、地道にレッスンを続けることが予想していたよりも大変だったというのが、けっこう本当の理由ではないかと晃は想像している。
 とにかく一年経ってみると同期の仲間は半数に減っていて、養成所のカリキュラムを終了して卒業できた人間となると、もう最初の一割以下になっている。それも最終的に卒業したということで、ストレートの二年で卒業できるやつはもっと少ない。
 卒業できた一割の中に晃や石井は一応入っているのだが、だからと言って仕事がどんどん取れるのかというと、それはまた別問題だった。
 例えば同期の岬は、晃が二年半かかったところを、二年のストレートで卒業したくちだが、目立ってメジャーな仕事が取れている訳ではなさそうだ。努力すれば必ず報われるという保証がないことは、この世界に少しでも足を突っ込んだことのある人間には身にしみてわかることだ。
 運と才能、けっこうかかるレッスン代、それから事務所の後押し。そんな本人の努力以外のこともあって初めて取っ掛かりがつかめるのかもしれないと、最近の晃は思う。
 ――理不尽な世界だ。華やかで、汚くて、それでもひとを惹きつけてやまない……。
「そう言えば、篠原はどうしてる? おまえ、同期で仲良かっただろ」
 晃はふと思い出して石井に訊ねた。
「由宇っすか? 元気にしてますよ」
 篠原由宇は先クール、冬の携帯電話CMでサブキャラの仕事をゲットして、それをきっかけにメジャーな仕事が取れるようになったらしい。
「この前も連ドラの端役、演ってましたよ。でも7ちゃんとクレジットに名前出てたし」
 ちょっとうらやましいような、友達として自慢したいような、複雑な表情で石井は応じた。
「へえ、すげーな。うちのような弱小プロダクションのタレントが、キャストに食い込むなんて」
「例のCMがメジャーっすからね。毎日のように流れてたし、なんたってメインがあの藤原亮だし」
 売れっ子の俳優との共演だけに注目度も高かったのだ。毎日テレビで見せられていれば、メインでなくてもそのうち顔も憶えられて「あの子は誰?」と話題にもなっていく。
 確かにチャンスはあるのだった。大手の芸能プロダクションのように事務所の後押しは期待できないが、オーディションで監督の目にとまれば、もしかしたらということはある。現に篠原由宇のケースでは、たまたま運良く取れた仕事が、次に繋がって行くという幸運に恵まれた。それがいつまでも続くとは限らないけれども。
「篠原っていくつだっけ?」
「おれとタメだから二十歳っス」
「まだ二十歳か……」
 晃は今二十四歳だった。来年には二十五歳になる。自分で決めたリミットの――。
 
 晃は更衣室で着替えると、石井と別れた。廊下をはさんでいくつか並んでいるスタジオの前で、晃はふと足を止めた。防音のスタジオのひとつから微かにアップテンポな曲が洩れ聞こえている。
 ミラーガラスのはめ込まれたドアの覗き窓から中を見ると、岬がひとりで踊っていた。そっとドアを押して晃はスタジオに入った。
 聞こえる曲のボリュームが一気に上がった。スタジオの壁面に全体に貼られた鏡のせいで、岬には晃が入ってきたことがすぐにわかっただろう。しかし、岬は頓着せず踊り続けている。邪魔をする気はなかったので、晃はスタジオの隅の床に静かに腰を下ろした。
 切れのいい正確なステップを刻んで、岬の逞しくて、それでいてしなやかな肢体が躍動する。岬はトレーニングパンツに上は黒いタンクトップ一枚だった。既に汗だくになっていて、リズムと共に汗の雫が飛び散る。
 岬の体全体には、鍛えられた筋肉が無駄なくついている。指先まで伸ばされた腕、首筋から肩の男っぽくてきれいなライン。大きく反らされたときに見えた、引き締まった腹筋。石井と同じくらいの身長だから、動きが大きくてダイナミックだ。
 その表情は真剣だった。一心不乱に踊り続けている。振り付けの5―8カウントまで晃は数えていたが、それ以降は岬の動きに目を奪われてわからなくなった。
 ――こういうのをダンスと言うんだよな。
 エンドレスでひたすら踊っていた岬が、動きを止めて床に放り出してあったタオルを拾って汗を拭った。首にタオルを掛けたままスタジオの隅に歩いて行って、こちらもエンドレスになっていたMDの曲を止めた。
 思わず尊敬の眼差しで、晃がおもむろに手を叩いたら、岬がじろりとこちらを見た。
「――イヤミか?」
 不機嫌そうに言われて、晃は睫を瞬かせた。
「なにが?」
「おれのダンスだよ」
「まさか。すごく良かったよ。カッコ良かった」
 正直な気持ちのまま答えたら、岬が男らしい眉をひそめた。
「このくらい踊れて普通だろ」
 照れ隠しなのか、ぷいと横を向いて岬が応じた。
 岬は同期だが、晃より三歳年下の大学生三年生だ。いつもクールというか達観しているというか、一匹狼的な群れたがらない質で、自分の目標だけを見つめて日々邁進しているように見える。それだけにレッスンでも真剣さは人一倍強い。自分の邪魔をされるのは許せないところがあるようだ。
「なんか用?」
「踊ってるのが見えたから。――それにさっきの、新人たちがビビッてたぜ」
「ふん、あんなド素人、さっさと辞めればいいんだ」
 岬の苛立ちは晃にもよくわかった。厳しい世界だと実感しているから、今日のような新人たちの生温いレッスン態度は我慢ならないのだろう。
「あの子たちも、そのうちわかってくるって」
「余裕だな……」
 と、岬が精悍な口元を皮肉な笑みで歪めた。
「って訳じゃないけど、おまえ最近テンパり過ぎじゃん?」
 晃が言うと、じっと岬は晃を見返した。
「んなことねぇーよ」
 そのまま晃に背を向けると、岬はスタジオを出ていった。
 岬の瞳が何か物言いたげだったような気がして、何だったんだろうと考えながら晃はその後ろ姿を見送った。

 
 晃は地方から東京の大学に進学したときに、ひとり暮らしを始めた。その大学でふとしたことから演劇にのめり込み、気づけば生活の中心は芝居になっていたのだった。チャンスを求めて、晃は今いる養成所に入ったのだ。
 養成所に入ってすぐにわかったことは、大学の劇団やサークルなどのいわゆる自己満足の『趣味レベル』と、シビアな芸能プロダクションとではスタンスが違い過ぎるということだった。いま思えばそんなことは当たり前のことなのに、当時はかなり衝撃を受けた。
 しばらくは両方続けるつもりでいた大学のサークルは、大学二年の終わりに辞めた。当時付き合っていたサークルの先輩に振られたからというのも、理由のひとつだったかもしれない。サークルの打ち上げで、酔った勢いで初めての晃が関係したその年上の女性は、『一度寝たくらいで本気にならないでよね』と呆れたように言ったのだ。
 お陰で、最初の二年間、サークルの芝居にのめり込んで落としまくった大学の単位は、残りの二年間で全部拾い上げることができ、晃は無事四年で大学を卒業した。
 しかし本気で役者を目指すことにした晃はフリーターとなって就職しなかった。実家の両親はもちろん大反対した。それをようやく説得して、晃は条件付きで了承をもらったのだ。仕送り無しで自活すること、二十五歳までやってダメなら諦めて実家に戻り、地元で就職すること。そういう条件だった。
 ――あと一年……。
 七月で二十四歳になった晃に残された猶予期間はあと一年だった。
 
 
 コンビニと居酒屋のバイトに追われる一週間が過ぎて、今日は例の舞台実習のレッスンがある土曜日だった。
 稽古場に指定されているBスタジオに入ってみると、前回とは微妙に雰囲気が変わっていた。顔ぶれは、変わっていない。講師に怒鳴られたアイドル系の新人くんも、取りあえず脱落せずに残っているようだ。だれもが熱心に台本に目を通したり、床で手足を広げてストレッチをしたりしている。
 ――イイ傾向だ。
「おはよっス!」
 石井が先に声を掛けてきた。
「おはようございます」
 晃の声に、その場にいた新人たちも「おはようございます」と一斉に応じる。
 その群れから離れたところに座っていた岬は、晃に目顔で挨拶をよこした。
 ――黒沢先生は来るだろうか?
 研修生たちが直に床に腰を降ろしているなかで、講師用にぽつんと置かれた椅子を見て晃は思った。すぐ隣に座っている石井や、少し離れたところにいる岬も、たぶん同じことを考えているだろう。
 と、ドアが開いて誰かが入って来た気配に注意を向ければ、三十才前後に見える青年だった。飾り気のない白いシャツに黒っぽいパンツといったラフな格好だ。
「ここ『舞台実習』のクラスですか?」
 すらりとした背格好に、無駄のない身のこなし。低くて柔らかだが良く響く耳触りのいい声。
 ――研修生……?
 いずれにしても素人ではない。なによりも晃たちが釘付けになったのは、その整い過ぎた容貌だった。
 完璧に左右対称の顔だ、と晃は思った。通った鼻筋に形のいい唇、きれいなラインを描く頬から顎の線はほとんど芸術的だ。亜麻色の少し長めに整えられた前髪が、ふわりと額に掛かっている。
 人形じみた、と言ったら悪く聞こえるだろうか。それほどにも完璧な美貌だった。もし彼の瞳が人形そのままにガラスの様に冷たい物だったら、誰も近づきたくない容貌になっていただろう。
 しかし、まるで作り物のように整った容貌をいきいきとした生身の人間にしているのが、彼のその双眸だった。完璧な造型にはめ込まれた切れ長の瞳は、その虹彩の色が淡いせいか、どことなく茫洋とした雰囲気を漂わせている。
 その淡い茶色の瞳がふんわりと微笑を含んでその場にいた全員を見渡すと、青年は口を開いた。
「すみません。僕は黒沢先生の代行で、水無瀬(みなせ)といいます。急で申し訳ありませんが、今クールのレッスンは、僕が受け持つことになりました。どうかよろしくお願いします」
「………」
 一瞬呆気に取られて、晃は石井と、それから岬と顔を見合わせた。
 やっぱりね、と言うように岬が肩を軽くすくめた。
 ――レッスン放棄だ……。
 黒沢は思いっきりへそを曲げてしまったのだろう。たぶんこの水無瀬とやらは、黒沢の弟子かなんかに違いない。
「では、出席をとります」
 ざわついている研修生を尻目に講師用の椅子の腰を下ろすと、のんびりとした口調で水無瀬は手にしていた出席簿のファイルを広げた。

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