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「なあ、どう思う?」
晃は、目の前で汗を拭って、ペットボトルのスポーツドリンクを飲み干した岬に向かって訊ねた。
「――どうって、何が?」
岬が目を眇めて訊ね返した。
舞台実習のレッスンが終わってから、岬は空いているスタジオでひとしきりダンスの自主練習をするのが最近の習慣だった。そんな岬のダンスが見たくて、晃は先週に引き続きスタジオの隅で見学していたのだ。
広いスタジオにふたりきりだった。
「今日の、代行の水無瀬先生のレッスンだよ。『黒沢先生とこの劇団で演出補をしてる』って言ってただろ? でもなんか黒沢先生とは教え方が違うな、と思って」
「そりゃそうだろ」
岬が、さも当たり前という表情で答えた。三歳年下のはずなのに、いつも自信にあふれて堂々とした岬を見ていると、晃は岬が自分と同い年か、もしかしたら年上なのかという気がしてくる。
「黒沢先生のは『教えて』なかったじゃん。ダメ出しされても、じゃあ、どこをどうしたらいいのかってのは全然言ってくれなかったからさ」
「自分で考えろ、ってことじゃない?」
「もちろん考えてる。それでもわからない場合はアドバイスが欲しいと思うのは当然だろ?」
精悍な顔に少し苛立ちを滲ませて、岬が応じた。
――やっぱ、なんか煮詰まってるな……。
「じゃあ水無瀬先生はけっこうイイかも? 言ってることの意味が良くわかるし」
晃が言うと、岬は口元に皮肉な感じに歪めた。
「それって、おれたち舐められてるんじゃん? 気に入らないな」
講師の『言うことがわかる』というのは重要なことだと晃は思う。往々にして講師の言うことは意味不明な場合が多いというのが晃の実感だ。もっと正確にいうと、プロの脚本家、演出家の言うことは、ちゃんとわかっていない素人には意味不明な場合が多いということだった。
しかし裏返せば、言われていることがわからないというのはこちらが素人ということで、もしわかるようにいちいち噛み砕いて説明されているのなら、相手がこちらを素人だと認めていることに他ならなかった。それを舐められていると表現する岬は、決して間違ってはいない。
「――それより、なんで晃ここにいるわけ?」
岬は年下だけど同期だということもあってか、晃のことを名前で呼び捨てにする。
「あ、ごめん。ひょっとして邪魔?」
「そんなんじゃねーけど」
岬はちょっと眉をしかめてから訊ねた。
「おまえ、バイトは?」
「今日は居酒屋。夕方六時までに入ればいいから」
晃が答えると「そうか」と岬は言って晃の顔をじっと見た。
養成所を続けるにあたって、仕送りなしの自活が条件の晃と違い、岬は親から買い与えられた都内のマンションで一人暮らしの大学生活を送っている。実家は地方で開業医をやっていて、かなり裕福な家らしい。もちろんバイトなんてしなくても充分な仕送りをされていることだろう。
「頑張れよ」
と片手を上げて、岬は更衣室に引き上げていった。
「月原晃くん」
養成所の建物内に設けられているカフェテリアの横を通りかかったとき、声を掛けられた。
隣のビルの屋上が緑化されていて、空中庭園のように見渡せる窓際のテーブル席に、講師の水無瀬がひとりで座っていた。よくマネージャーたちが打ち合わせにつかう場所だったが、今日は珍しく他に客の姿はない。
「よかったら一緒にお茶しませんか?」
優雅な姿勢でゆったりと腰を掛けている水無瀬は、端正な容貌にふんわりと微笑を浮かべて言った。
「あ、はあ。でもおれ、これからバイトがあって……」
「バイトは何時から?」
「六時に新宿です」
晃が答えると、水無瀬はちらりと自分の腕時計に視線をやった。そんな些細な仕種さえ酷くきれいで、晃は瞬間意識が釘付けにされる。
時刻は四時半過ぎだった。今日のレッスンが終わってから、かれこれ二時間程経っている。まだ水無瀬がいるということは、夕方からのレッスンも受け持っているのかもしれない。
「新宿だったらまだ時間がありますね」
にっこりとした水無瀬に目顔で椅子を勧められて、晃はそれ以上むげに断る理由を見つけられず、促されるままテーブルを挟んだ水無瀬の前の席に腰を下ろした。
「アイスコーヒーでいいですか? それとも紅茶派?」
「アイスティーお願いします」
ちょっと緊張して答えた晃を見て、水無瀬はくすりと笑った。
「そんなにかしこまらなくても、お茶ぐらい平気でしょ? それとも講師やマネージャーとの交際は禁止されているから困りますか」
「え……?」
意外なことを言われた気がして晃は目を瞬かせた。
水無瀬の言う通り、養成所の研修生と、講師やマネージャーとの交際は禁止だという規則は確かに存在する。色恋沙汰のトラブルで仕事に支障が出ることを事前に回避するためだろう。
しかしそれはもちろん男女間の話であって、男どうしの自分たちには関係のないことではないか。
思わず水無瀬の顔を見返すと、酷く端整な面の、くっきりとした双眸が見つめ返した。淡い虹彩に、けぶるような微笑が浮かぶ。冗談なのか本気なのか量りかねて、戸惑っている晃の様子を面白がっているようにも見える。
「………」
と、水無瀬の笑みが深くなって、すっと自然に視線を外すと、オーダーを取りに近づいてきたウエートレスに「アイスティーください」と注文した。
水無瀬は白のシンプルなシャツを、素肌に直接身につけているようで、身なりに飾り気がないだけに、逆に着ている本人の並み外れた美貌を際立たせているようだった。
「で、月原晃くんは、役者志望でしたね」
その横顔に見とれていた晃は、急にこちらに向き直られて訳もなくどぎまぎした。
「あ、はい」
答えた声が上擦らなかったか心配だ。
「映像? それとも舞台?」
水無瀬が訊ねた。
テレビや映画なんかの映像の仕事と、ライブで演じる舞台の仕事では、実は演じ方がかなり違う。
役者の個性によって向き不向きもあると晃は思うが、短いカットを積み重ねていく映像よりも、晃はお客を前にした生の舞台で、ずっとその役柄のテンションを保ち続けることに、より高揚感をおぼえる。
「映像もやってますけど、本当は舞台をやりたいと思ってます」
晃が答えると、「そう」と水無瀬が頷いた。
本当にきれいなひとだなあと、晃は思う。
「水無瀬先生は、ずっと黒沢先生のところにいらっしゃるんですか?」
晃が訊ねると、水無瀬はフフと笑った。
――なんかヘンなこと言ったか、おれ?
「もうずっと、ですね。――僕のこと先生とは呼ばないで、ってさっきのレッスンで言ったはずですが」
「あっ…と、すいません」
そういえば、呼び方は『水無瀬さん』にして欲しいと、自己紹介のときに言われたのだった。
「僕は先生なんて呼ばれる程の人間じゃないし、第一『みなせせんせい』なんて呼びづらいでしょう? どうしてもきみが滑舌の練習をしたいというのなら、協力しないでもないですが」
急に発声練習などと言われて、晃は一瞬きょとんとした。
「月原晃くんは、サ行の発声が苦手でしょ?」
――あ!
にっこり指摘されて晃は息を飲んだ。まさに水無瀬のいう通りだった。
役者を本格的に目指すまで自分でも気づかなかったのだが、晃はサ行――つまりサ、シ、ス、セ、ソ――の発音が、他のと比べて苦手らしいのだ。だからサ行の続くセリフなんかは、やたらとつかえて噛んだりする。
たった一度レッスンをしただけで、水無瀬は晃の弱点を見抜いたのだった。
「………」
――このひと、見た目よりもスゴイかも。
今日初めて見たときからきれいなルックスにばかり気を取られていたが、実はなかなかの曲者なのかもしれなかった。水無瀬自身は、自分の容姿が相手にどんな印象を与えるのかを充分承知していて、効果的に利用しつつ腹の中では色々たくらんでいたりするのかもしれない。
「僕はきみのことをどう呼べばいいのか、さっきのレッスンでは聞きそびれましたね」
――ああそれで、さっきからフルネームだったのか。
「普段は晃、って呼ばれてます」
「そう、それじゃあ僕は晃くんと呼んでもいいですか」
はいと答えると、水無瀬がうれしそうに言った。
「晃くんと一緒に芝居をやれることになって光栄です」
「もっと感じて!」
低めだが、凛と響く声が言った。
セリフを言ったばかりの晃は思わず動きを止めて、声の主である水無瀬の方を見た。
土曜日のBスタジオだった。屋外は熱気を孕んだ夏の午後の大気で満たされているはずだが、緩めに冷房を効かせたスタジオ内は、外とはまた別の緊張感を孕んだ熱気で満ちていた。
先週の本読みから少し進んで、レッスンは立ち稽古の体裁を取っていた。と言っても、まだほとんどの研修生は手に台本を持ったままで、動きの方もちゃんと決まっていない手探り状態だ。晃は大体のセリフは入っていたが、一応台本を手にしたままやっている。
「それじゃあ、気持が全然動いていない」
舞台に見立てたスタジオの半分を見渡せる位置の椅子に腰を掛けて、水無瀬は組んでいた足を優雅な仕種で解くと言った。
「上手く演ろうしなくていいです。晃くんが本当にそう思ってないのなら、セリフを聞いているこちらには、ああ芝居をしているのだな、としか思えない」
水無瀬の落ち着いた声色が、しんとしたスタジオ全体に浸透していく。
「声の調子だけで芝居をしたり、形通りの表情だけで表現されても全然つまらない」
晃の隣に位置していた岬が、ぴくりと反応した。舞台上には石井と、他に新人が二人。晃と岬を含めて合計五人の登場人物がいる。
「下手でもいいから、本当に感じている気持を観せて欲しい」
そう言って水無瀬は足を組み直すと、台本に眼を落とした。
「じゃあ今の所からもう一度、はい」
パンッと、水無瀬は合図に手を打った。
* * *
赤道に近い場所に位置する某島国。政情は少々不安定だが、自然のままの美しいビーチや手付かずのジャングルがマニアな観光客に人気だ。
そんなジャングルの中、大きな木の上にありあわせの枝やツタで作られたみすぼらしい小屋がある。残念ながら『木の上のお家』などというロマンチックな代物ではなく、小屋の中では若い男ばかりが数人、深刻な表情で顔を突き合わせていた。
旅行社の添乗員一名を筆頭に、大学生やフリーターなどの客四名、計五名の日本人旅行者たちだった。ジャングル探索ツアーの当日、いきなり始まった内戦に巻き込まれ、訳もわからずジャングルの中を逃げまどう内に、現地の案内人ともはぐれてしまった……。
『一体、どうなってるんだよっ!?』
剣呑な雰囲気を漂わせていた大学生が、ついに切れて叫んだ。
『もう携帯も通じないんだろっ?』
『本社には一度だけ電話が繋がりましたから、きっと助けが来てくれるはずです』
大柄な添乗員が、大学生を落ち着かせようと、汗を拭きながら必死に言い募った。
『本当に来てくれるのかなあ、日本の自衛隊……』
ぽつりと呟くように『おれ』が言うと、疲れ切って座り込んでいた他の無言のふたりがぎくりとしたように顔を上げた。
* * *
「はいっ!」
と、水無瀬が芝居を止めた。
「そう、そういうことです。岬くん、さっきより切れ方がリアルになりました。石井くん、口形に注意してもう少しセリフをはっきりと。舞台ですから、何を言ってるのか良くわかるように」
それから水無瀬は晃の方を見て訊ねた。
「感じましたか?」
「――は、はい」
確かに感じた。ジャングルのむっとする青臭い空気の中で、もう日本には帰れないかもしれない。もう親や友達にも会えないかもしれないと思ったら泣きたくなった。
水無瀬の切れ長の瞳が、満足そうにふんわりと微笑を含んだ。一瞬幻惑されるような奇妙な感覚を感じて、晃は水無瀬の茶色の淡い虹彩を見つめた。
ジャングルから水無瀬に引き戻されて、自分はいま養成所のBスタジオにいるはずなのに、足が地についていないような変な感じがする。
「おい」と脇を岬に突かれて、晃は我に返った。
「メンバー交替だ」
「ああ…」
場所を次のグループに明け渡して、晃は腕を引かれるまま岬の隣の床に腰を下ろした。
研修所のカリキュラムは三ヶ月を1クールとしている。今クールの舞台実習のレッスンにいつも出てきているのは、晃が数えたところ十二、三人だった。台本のキャストが五人なので、レッスンでは毎回自分の出番が回って来る計算になり、なかなか理想的な人数だった。
ふと隣に座っている岬を見ると、真剣な顔つきで岬は始まったばかりの次のグループの演技を見ていた。晃は岬のダンスが好きだったが一緒に芝居をやるのも楽しかった。
岬の芝居は、相手によってちゃんと反応が変わる。例えば同じ役柄をやっていても、相手のセリフの言い方や表情を受けて、それによって岬が演じる役柄の登場人物の反応も変わるのだ。つまり相手の芝居を受けた反応を返しているので、相手役が変わると同じキャラをやっていても、微妙に反応が違っていたりするのだ。
さっきは添乗員役の石井を相手にしてキレる演技をしていたが、石井ではない誰かがやる添乗員だと、もっと別のキレ方をするかもしれない。
同じ台本の同じセリフでも、演じる役者の解釈や表現のニュアンスの違いによって、その登場人物が違ったものになるのは当然とも言える。だから晃も台本を見るときは、まずどんな風に『本』を読むかに神経を集中させる。自分なりの登場人物を解釈してまず演ってみるのだ。最初は手探りで色々試してみて、その過程で演技指導を受けて演出家の意図に沿ったキャラクター作りをしていく。
「これ、今度の発表会に出すと思うか?」
早々に見切りをつけたのか、新人グループの棒読み演技を横目に、岬が晃にささやいた。
「うん、どうだろ? 出来具合いを見て考えるんじゃない?」
と、晃は小声で応じる。
毎年秋に研修所内の発表会があった。外部の人間を入れる訳ではないが、講師たちはもちろんのこと、プロダクションのマネージャーたちもほぼ全員観に来てくれるので、研修生にとっては自分をアピールする絶好の機会となるのだった。
岬となら演りたいと、晃は思った。石井を入れて、あと残りの新人クンたちを何とかすれば、発表会に出せるかもしれない。水無瀬の演技指導にもよるが、面白い芝居になりそうな予感がする。すると、
「――やりたいな」
と岬が言った。最近煮詰まっていた様子だったので、やる気を見せた岬に晃は何だかうれしくなった。
「おれも。岬となら演りたい」
晃が答えると、岬は精悍な顔をこちらに向けて、冴えた瞳で晃を見返した。
「九月に研修所の発表会というのがあるそうなので、うちのクラスからも出したいと思います」
レッスンの終わりに、のんびりとした口調で水無瀬が言った。
「キャストはレッスンの中で決めたいと思います。やってみたいと思ってる人は、どんどんアピールしてください。では、お疲れ様でした」
端整な表情にふんわりと微笑を浮べて研修生たちを見渡すと、水無瀬はそう締めくくった。
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