ゼロの距離

「岬、なんか最近悩みごとでもあった?」
 舞台実習のレッスンが終わった後、いつものように晃は岬のダンスの自主練習を見学していて訊ねた。
 タオルで汗を拭って、スポーツドリンクのペットボトルを掴んだ岬は、ちょっと驚いたように顔を上げた。
「おまえって鋭いのかにぶいのか、わからない奴だな」
 岬は晃の近くまでやってきて、床にあぐらをかいて座り込むとそう言った。
「なんだよそれ。失礼だなっ」
 見た目と中身が違う、とは晃がよく言われることだった。たいていは見た目が繊細そうだと感想を洩らす相手が続けて言うセリフだったから、つまりは晃はガサツで鈍いということなのだろうか。
 晃がむくれると、岬はくすりと笑った。
 みんなはあまり知らないだろうけど、岬は笑うとすごく魅力的な表情になる。滅多に笑わないから稀少価値があるのか、同性の晃から見ても訳もなくどきりとするほどだ。いつもクールな振りをしていないで、もっと笑えばいいのにと思う。
「――気にしてくれてたのか?」
「当然だろ? 友達なんだから」
 少し前までは岬がダンスレッスンに力を入れていたせいか、ほとんど演技系のレッスンで顔を合わせることがなかった。しかし最近の三クールほどは岬が続けて舞台実習のレッスンを取っているので、同期ということもあり晃は岬と割に親しくなったのだった。
 岬は他の研修生に言わせると、カッコよくて憧れはするけれど、無愛想なのがちょっと怖くて、近寄り難いのだそうだ。
「友達か。……そうだな」
 なぜか噛みしめるように言ってから、岬は晃から視線を外して続けた。
「発表会、一緒にやれるといいな」
 珍しく岬から話を振られて、晃は思わず身を乗り出した。
「おれ今日やったグループ、結構いいと思うんだけど」
 晃が言うと岬は頷いた。
「ああ。石井はまあまあ問題ないし、新人のふたりがもうちょっと何とかなれば、いけるかもな」
「でもさ、岬いままでは発表会とか興味なかったじゃん。なんで急にやる気になったの?」
 岬はこれまで、発表会には興味がないのか全く参加しようとしなかったので、晃は気になって訊ねた。
「なんでって。……別に、理由なんてないよ」
 そう応じた岬の横顔は、いつものクールな表情に戻っていた。岬のことだから、きっと何か考えがあるに違いないと晃は思ったが、本人がそう言うのだからそれ以上追求するのは止めておいた。いつも岬は、本音をぜんぶ晃に見せてくれることはない。
 
 岬と別れた晃が、養成所のカフェテリア横を通りかかると、案の定先週と同じように水無瀬がいて、晃の顔を見るなりにっこりと手招きした。明らかに晃が来るのを待っていた様子だ。当然のように晃のためにアイスティーを注文すると、水無瀬は晃を席に座らせた。
 店内には離れた他のテーブルに晃も顔を知っているマネージャーたちがいたが、こちらに気を留める人間はいなかった。
「発表会、やりませんか?」
 テーブルを挟んで向かい合うと水無瀬が言った。
「面白そうなのでやってみたいです。さっきも岬と話していたんですが、一緒にやりたいなぁって」
 すると水無瀬の表情に興味深そうな色が浮かんだ。
「――岬くんとは、付き合ってるの?」
 質問の意味がわからず、晃は水無瀬の顔を見返して言った。
「岬とは同期なんで、付き合いはあるんですが……」
「じゃあ、付き合ってる訳ではないんだ」
「は? はあ……」
 頭の中で『付き合いがある』と『付き合ってる』の意味の違いを一生懸命考えていると、水無瀬は端整な面に意味深な笑みを刷いた。
「晃くんて芝居は繊細で勘がいいのに、鋭いのか鈍いのかわかりませんね」
 なんかさっきも岬に似たようなことを言われた気がして、晃は目を瞬かせた。
「てっきり岬くんはライバルかと思いましたが……」
 ――ライバルって、誰が、誰の……?
 全然話の見えてこない晃に、水無瀬はいっそうきれいな微笑をひらめかせて言った。
「晃くん、それなら僕と付き合いませんか?」
 さっきのことばの違いをようやく確認して晃は訊ねた。
「……それは、おれと水無瀬さんが、――ですよね?」
 微笑の表情を崩さずに水無瀬が頷いた。
「おれ、男ですけど」
「見ればわかります」
「水無瀬さんも――」
「もちろん男です」
「…ってことは、つまり――」
 ――つまり、水無瀬さんは……。
「僕はゲイです」
 ――!
 あっさり肯定されて晃はリアクションに困った。『わーっ、ホモだっ』とか『ホンモノだーっ』という感じではなかったが。
「え……?」
 と言ったまま、晃はとっさにことばに詰まった。
「気持ち悪いですか?」
「――いえ、そんなことないです」
 仮にそう思ったとしても、面と向かって言えることではなかったが、実際のところ不思議と晃は不快には思わなかった。水無瀬があまりにも自然体だったからだろうか。
 人並み外れた水無瀬の美貌を見ていれば、そんなこともあるかもしれないと妙に納得しかけて、はたと晃は気づいた。
 ――でも男どうしって、どう付き合うんだ?
「おれ、どうすればいいんですか?」
 晃が訊ねると、水無瀬は一瞬虚を衝かれたような顔をした。そして、くすくすと笑い出した。
「――女の子と付き合ったことは?」
 笑いながら水無瀬が訊いた。
「ありますけど……」
「じゃあ基本的には同じですよ」
 まあ、多少相違点はありますが。と呟いて、水無瀬は端整な容貌を晃に向けた。
「OKしてくれるということですか?」
「よくわからないんですけど――」
 即座に断る理由が見つからない、と言う方が正確だった。晃が的確なことばはないかと探していると水無瀬が言った。
「では、『お試し(トライアル)』にしませんか」
「トライアル?」
「ええ。今クールいっぱい、九月の発表会が終わるまでの」
 そう言えば、水無瀬は元々は黒沢の代行講師だった。
「黒沢さんは、ちょっと今回はへそを曲げてしまってますが――」
 水無瀬は言った。
「あれでいて、『先生』と呼ばれるのは好きなひとですから、たぶん来クールにはここのレッスンに戻って来ると思いますよ。そうしたら僕はお払い箱です」
 自分の師匠にあたるだろう黒沢を掴まえて散々な言い様だが、水無瀬は澄ました顔でそう言うと、晃を見返した。
「だから晃くんは心配しなくてもいいです。もしダメなようなら、しつこくせずに晃くんの前から消えますから」
 低リスクでしょう? と同意を求められて、つい晃は頷いてしまった。
「発表会まで、楽しみですね」
 うれしそうに言った水無瀬の完璧な造型にはめ込まれた切れ長の淡い茶色の瞳が、微笑を含んでじっと晃を見た。
 ふいに、さっき晃がレッスン中に感じた幻惑されるような奇妙な感覚が甦って来る。
 ――なんか変だ……。
 舞台の幕が上がる直前の、言い様もない高揚感に近かった。期待と緊張が混ざりあった、ぞくぞくするような感じに似ていた。
 
 
 あと三十分、と時計を横目で盗み見ながら晃はレジに入っていた。晃のバイト先のコンビニはオフィス街の近くにある。会社の昼休み中は客でごった返す広い店内は、今は数人の客がいるだけでひと気はまばらだ。晃の今日のバイトは夕方四時までで、その後は五時からの『演技』のレッスンに出る予定だった。
 店のドアが開いて屋外の熱気と共に客が入って来る気配があった。「いらっしゃいませ」と顔を上げると、岬だった。
 目顔で挨拶をよこした岬は、レジ横を通るときに小声で「もうすぐ上がりだろ?」と訊ねた。
「うん」
 と晃がささやき返すと、
「待ってるから」
 そう言って岬は雑誌コーナーの方へ歩いていった。
 岬の姿を見送りながら、今日は水曜日だよな、と晃は考えた。水曜日夕方からの『演技』は、岬が取っていないレッスンのはずだ。
 どうしたのだろうと、晃は雑誌コーナーで立ち読みを始めた岬の姿にもう一度目をやった。
 岬はこうして見てみると、やっぱり格好よかった。レッスン中の晃はそんなこと気にしている余裕はないのだが、いま晃の目の前の、日常の生活シーンの中にいる岬には、一般人と比べると格段に人目を引く存在感がある。
 普通立ち読みなんて、傍目から見て格好のいいものではない。それなのに岬は全然格好悪くなかった。雑誌に目を落とした横顔のシャープなラインとか、引き締まった口元とか。
 雑誌を手に、そこに自然に立っているだけの姿勢ですらきれいで、岬が一般人の中に埋没しない理由が晃にはわかる気がする。有り体に言えば、岬には才能がある、と晃は思うのだ。
 岬は晃より三歳も若いし、家も金持ちだから、このまま就職せずに役者を目指せばそのうちなんとかなるかもしれない。晃は自分の状況とひき比べて、岬のことをうらやましいと思うけれど妬む気はしなかった。例えば得意なダンスにしたって、岬がいつも上を目指して密かに努力をしていることを晃は知っているからだ。
 しばらくすると雑誌にも飽きたのか、岬は買い物カゴを取って、ポテトチップスやら缶ビールやらを大量に詰め込み始めた。
 ――パーティーでもするつもりか……?
 驚いて眺めていると、レジに買い物カゴを持ってきた岬が言った。
「いまからうちに来いよ。ビール飲めるだろ?」
 意外なことを言われて、レジを打ちながら晃は岬の顔を見返した。
「え? おれ、これからレッスンだけど」
「きょうはレッスンないぜ」
 呆れたように岬が言った。
「創立記念日だろ。うちの事務所の」
 そう言われて、ようやく晃は今日は事務所全体が休みだったということに気がついた。
「うわっ、おれ、マジ行くとこだった。助かったよ」
「ときどきボケてんな、晃は……」
 やれやれと言うように岬は肩をすくめて見せた。
 岬と比べられて、ボケてない奴なんて滅多にいないだろうと思いながら、晃は岬の冴えた瞳を見つめた。
 
 岬が住んでいるマンションは、見た目もしゃれた感じの高級そうなデザイナーズマンションだった。晃がいる木造二階建ての安アパートとは雲泥の差だ。
「すごいとこに住んでるんだな」
 岬に連れられて、こぎれいなエントランス抜けてエレベータに向かいながら、晃は正直な感想を述べた。
「別に……。晃と違っておれは自分で払ってる訳じゃないから」
 確かに大学生の身分では、ここは自力で払えるような家賃ではないだろう。親が学費から生活費まで、ぜんぶ面倒を見ていてくれてこそ成り立つ暮らしだった。
 なんだか恥じ入ったような反応を見せた岬は、結構まともな感覚を持ってるやつなんだなあと、晃は好ましく思った。
「散らかってるけど、入って」
「お邪魔します」
 と、玄関ホールを抜けると広いリビングに出た。二十帖ぐらいはあるだろうか。シンプルなモノトーンの家具でコーディネートされた部屋は、岬が言う程には散らかっていなかった。程よく生活感のある部屋だ。ソファの向側の壁際に置かれた大きな液晶テレビを見て、さすが金持ちだなあと晃は密かにため息を洩らす。
「適当に座っててよ」
 岬は言ってエアコンのスイッチを入れ、台所の方へ歩いていった。すぐによく磨かれたグラスをふたつ持って戻って来るとローテーブルにグラスを置いて、岬は缶ビールの中身を注ぎ分けた。
「じゃあ、とりあえず乾杯ー!」
「乾杯!」
 と、岬につられて晃はグラスに口をつけた。
 ――にしても、今日はいったい何なんだろうと、晃は岬の表情をうかがった。
「なに?」
 ポテトチップスの袋を破りながら、岬が訊ねた。
「え、なんで急に誘ってくれたのかなと思って」
「迷惑だったか?」
 と、ちょっと不安げに岬は訊いた。
「…んなことない。うれしいよ」
 晃が答えると岬は眉を開いた。
「たまには晃とゆっくり話したいと思ったから。いつもスタジオでちょっとしゃべるだけだろ? 晃はバイトとか忙しいからさ」
 そんな風に気を使われているとは全然思わなかった。いつもは自分の方が、岬のダンスの自主練習の邪魔をしているとばかり晃は思っていたからだ。
 ――最近ではあの後、養成所のカファテリアでのんびり水無瀬さんとお茶していたなんて、とても言えないなあ。
 お茶どころか先週、晃は水無瀬からゲイだと告白されたうえに、『付き合いませんか』と言われたばかりなのだ。
 水無瀬に別に口止めされた訳ではないが、いくら相手が岬だとはいえ、おいそれとこの事実を打ち明けるにはいかないだろう。なにしろ晃は水無瀬と男どうしで『お試し』に付き合うことになってしまったのだから。
「水無瀬さんて――」
 不意打ちの岬のことばに、どきんと晃の心臓が大仰に跳ねた。
「演出家なんだよな」
「うっ? う、うん」
 なんだか慌ててしまって晃はどもった。
 そんな晃を見て、岬は怪訝そうに男っぽい眉をわずかに顰めたが、
「元は役者とかやっていそうだよな。あの見た目だし」
 と、続けた。
「そ、そうだよなあ」
 訳のわからない胸の鼓動を必死に抑えつつ晃は相槌を打った。気持ちをごまかすようにコップのビールに口をつけて、残りをごくごくと飲み干す。
 空になったコップに、新たな缶のプルタグを引いて、岬がビールを注いでくれた。
「サンキュ……」
 と、晃は岬が置いた五百ミリリットルの缶から、今度は自分が岬のコップにビールを入れた。
「ペガサスの養成所って、講師が演出家とか、脚本家とか役者とか色々なケースがあるけどさ、演技指導って本当のところどれが一番なのかな」
 岬が言ったことは、晃も常々考えていたことだった。
「岬的にはどう?」
 晃が訊ねると、岬は首を傾げてちょっと考える素振りを見せた。
「おまえが初日に言ったように、役者の黒沢先生よりは、演出家の水無瀬さんの方がやりやすいかもな」
 最初、岬は『舐められてる』なんて言っていたから、水無瀬と岬とでは相性が悪いのかと晃は心配したが、そうでもなかったようだ。
 個人的には、晃は講師が役者だろうと演出家だろうと、自分との相性が良ければいいと思っている。講師の感性に共感できるかどうかは、演技指導を受けるときには重要なことだ。
 例えば芝居を作るときに、講師が目指しているところと、自分が目指しているところが、感覚的にあまりにも乖離していると、そもそも芝居として成立しない。
 一緒にやってみて、『ああ、なんか違うなあ』という違和感があると、晃はもうだめなのだった。その点、水無瀬は感覚的に酷くしっくりとくる。しっくりし過ぎて、意識ごとどこかへさらわれそうになる。
「発表会、うまく行くといいな」
 岬がじっと晃の顔を見つめて言った。あまりにも真剣な面持ちに、晃は少々たじろいだ。
 ――毎年の恒例行事なのに……。
 岬の言い方はまるで、これが最初で最後のチャンスみたいに晃には聞こえた。
「うん、そうだね。一緒に演ろうな。石井もいれてさ」
 ――代行の水無瀬さんとやるのは、最初で最後のチャンスかもしれないけど。
 そんなことを考えながら晃が応じると、岬は男っぽく整った容貌に微笑を浮べた。
「今日は遠慮いらないからさ。どんどん飲めよ。おまえ酒強いんだろ?」
「えーっ? 誰がそんなこと言ったんだよ。好きは好きだけど、おれ、そんなに強くはないよ?」
 ――そう言えば岬と飲むのは初めてだな。
 新しい缶を開ける岬の、シャープな横顔を眺めながら晃は思った。

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