ゼロの距離

 たまには早く帰ろうとさっさと着替えを済ませて更衣室を出た。更衣室を出てすぐの、研修生たちがふだん休憩所にしている自販機コーナーのところで、晃はちょうど水無瀬と出くわした。
 水無瀬は晃の姿を認めると、おやっというような表情を浮べた。
「きょうは早いですね」
「岬が仕事に行っちゃったんで。おれも帰ろうかと……」
 水無瀬には養成所のカフェテリアでお茶をしたときに話しているので、いつも晃が岬のダンス見学をしていたことは水無瀬も知っている。
「やっぱり仲がいいんですね、岬くんと」
 どこか微妙な水無瀬の声色に、晃が端整な面を見返すと、
「……妬けますね」
 水無瀬は目前の晃だけに聞こえるように、ほとんど息だけで陰微にそうささやいた。
 ざわりと胸が騒いだ気がするのは、たぶん岬とのキスを思い出したせいで。
「今日もバイトですか?」
 がらりときさくな感じに口調を変えた水無瀬に、「はい、あ、いえ」と晃は訳のわからない返事をしてしまった。
「……どっち?」
 可笑しそうに訊き返されて、
「――休みです」
 と、晃は赤面してしまう。
「じゃあこれから食事に行きませんか?」
「でも水無瀬さん、この後のレッスンは――?」
 晃が舞台自習のレッスン後、毎回カフェテリアで水無瀬を見掛けたのは、水無瀬が六時からの『基礎講座』のレッスンも受け持っていたためだった。
 『基礎講座』というのはその名が示すとおり、研修所に入ったばかりの新人向けの講議で、この業界に入るに当たっての常識や、現場に行ったときの注意事項などを、実例をもとに教える講座だった。例えば、現場に入るときの挨拶がどんな時間帯でも『おはようございます』で、帰るときは『お疲れ様でした』だとかいった常識的なことから、大きな声では言えない現場での失敗談の実例とか。
「アレは先週で終わりました。全三回だったので」
 やれやれといった表情で水無瀬は言った。
「実習ならともかく、僕が講議だなんて柄でもありませんね」
 ――おれも受けてみたかったな。
 照れくさそうに笑う水無瀬を見て、晃は思った。
 
 カフェテリアで晃を待ち伏せするつもりだったらしい水無瀬は、思いがけず早い時間に晃を掴まえて、何だかうれしそうだった。
 結局晃は水無瀬に誘われるがまま、連れて来られたのは再開発された品川駅の、複合商業施設や高層のオフィスビルが林立するエリアだった。最近では六本木や汐留など、再開発によって、次々とおしゃれな雰囲気の新しい人気スポットが登場している。
 普段は勤め人の多そうなこの場所は、土曜日の夕方ということもあって、買い物客やこれから食事をしようというカップルなどであふれかえっていた。
 水無瀬が選んだのは、そんなビルのひとつに入っている高そうな創作和食料理の店だった。いつもは仲間内で使うのは養成所近くの安い居酒屋のチェーン店だったから、晃はこういった店にはほとんど入ったことがない。しかも水無瀬とふたりきりで食事をするのは初めてで、晃は自分が緊張しているのを感じていた。
 店内は落ち着いた大人の雰囲気で、入ってすぐ正面の大きなカウンターとオープンキッチンに目を引かれる。
「カウンター席にしましょうか」
 と、晃がカウンターの中に興味を惹かれている様子を察して、水無瀬が案内に出てきた店のひとにカウンター席の方を頼んだ。
 カウンタートップは黒い大理石で、良く磨かれた表面には柔らかな照明の光が落ちている。
 晃は水無瀬と並んでスツールに腰を下ろし、物珍しそうに明るい照明の下のオープンキッチンを見やった。
 まだ夜も早い時間で店内にそれほど客はいなかったが、仕込みがいろいろあるのだろう。中では割烹着姿の大勢の料理人たちが忙しそうに立ち回っていた。次々と晃たちの目の前で繊細な感じのする料理が作られ、凝った器に美しく盛られていく。
「……舞台のようですね」
 と、隣で水無瀬が言った。
「調理人がお客の前で料理をするのは、観客の前で本公演に臨んでいるみたいだ」
 ――ほんとうだ……。
 澱みのない調理人の手先の動きを見ながら、晃は思った。晃のすぐ前で見事な包丁さばきを見せる調理人が、いまはオープンキッチンの主演俳優だった。すばらしい演技に惹きつけられ、晃は何だか胸がどきどきしてくる。
 ふと気がつくと隣の水無瀬が、満足そうな笑みを浮べてこちらを見ていた。どうやら晃の食いつき方が、水無瀬の予想通りだったらしい。
「気に入ったみたいですね。料理はもちろんのこと、ここは日本酒もおいしいのがたくさん置いてあってお薦めです」
 そこで、初めて気づいたように水無瀬が訊ねた。
「晃くん、日本酒は?」
「好きです。冷酒なんか結構飲みますけど、おれ、銘柄とか良くわからないんで……」
「じゃあ、僕にまかせてくれますか?」
「はい、お願いします」
 晃が言うと、水無瀬はにっこりして早速メニューから酒と料理をオーダーし始めた。
 
「水無瀬さんは役者をやったことはないんですか?」
 アルコールが入って食事が進むにつれ緊張も解けて、晃は以前から気になっていた質問を水無瀬にしてみた。
 水無瀬のどこにいても目立ってしまうような容姿からすれば、舞台の演出をするよりも、水無瀬が舞台の上に立つことを望む人間も多いのではないかと思っていたからだ。
「学生の頃は少しやったことがあります」
 結構飲んでいるはずなのに、全然酔った様子がない。優雅な仕種で、硝子切子のグラスを傾けて水無瀬が言った。
「でも演出の方が面白くなって、役者は数年で辞めました」
 そう言って水無瀬はグラスを置くと、晃の方を見て続けた。
「僕はね、作るのが好きなんです。舞台全体を見渡して、僕の世界を構築したい。役者も芝居を作ることに違いはありませんが、舞台に取り込まれた構成要素でしょう? 舞台で芝居をしているときに、リアルタイムで自分の演技は見ることはできませんからね」
 自分の世界を構築するために、役者ではなく演出家でなくてはならないという水無瀬の主張は、そのままでは正直、晃にはピンと来なかった。しかし、作るのが好きというのは晃にもわかる気がする。晃がそもそも芝居にはまったのは大学の劇団に入って、芝居を作り上げる愉しみを知ってしまったからだ。
 あとひとつ、晃にはぜひとも水無瀬に訊いておきたいことがあった。
 ――水無瀬さんは、なぜおれに興味を持ったのだろう……?
 好みもあるだろうが見栄えの良さから言えば、身長もルックスもモデル並みの岬と違って、晃は研修所の中でならごく平均レベルに過ぎない。
 晃の『デリケートそう』と言われる外見と、『見た目と中身が違うんだね』と評されるさばけていて、天然の――自分で認めた訳ではないが――性格とのギャップが、ひとから面白がられることは結構あったが。
 晃の疑問は、晃が水無瀬にその質問を投げかけるより先に、新しい料理の皿がカウンターに出てくると、水無瀬から期せずして話の続きとして語られた。
「僕が考える舞台づくりは、この料理の皿と似ています」
 大振りの陶器の皿には、産地を厳選した季節の有機栽培野菜と天然モノの鮎が、美味しそうに、見た目にも美しく盛り付けられていた。
「吟味した素材を使って、それに相応しい演出をして、最高の結果を引き出したい。晃くんは最高の素材になると僕は思います」
「最高の素材ですか……」
 何をどう過大評価されているのか自分では判断しかねたが、水無瀬が晃のことを演出家として興味を持ったことなのは確かなようだった。
 ――おれという人間に興味があるんじゃないんだ。
 役者として、演出家に興味を示されたのだから喜ぶべきだったかもしれないが、なんとなく晃は肩透かしを喰らったような気がした。
 晃の内心の揺れに気づいたのだろうか、晃が黙っていると水無瀬は言った。
「最初は確かに、僕は晃くんの持っている役者としての素材の魅力に惹かれました。でも、そこから僕がきみ自身に惹かれていくことも自然だし、それは非難されることではないでしょう?」
 言われてみれば、そう言うこともあるだろうかと思う。
「――はい」
「僕はもっと晃くんのことを知りたいと思ってますよ」
 非の打ちどころのない美貌にじっと見つめられて、晃の意識は抵抗をする間もなく水無瀬に搦め取られていくようだ。
 創作和食料理の店を出た頃には晃はかなり酔っていて、「どこかで軽く飲みましょう」と言う水無瀬と一緒に、タクシーに乗り込んだことは記憶にある。
 しかしその後、どこの店で飲んだのかはよくわからない。店内の内装の雰囲気とか、水無瀬のふんわりとした微笑とか、テーブルに置かれたグラスが淡い照明に光っていたのを、断片的に思い出せるだけだ。
 それからの記憶は更に曖昧だ。もしかしたら夢だったかもしれない。
 着いたよ、と言われたどこかで「晃くん……」というささやくような声が耳朶を打ったのと、唇に何かが触れたのは同時だった。
 誰かに身体を引き寄せられて、キスされてるんだなとぼんやりと思う。晃は暗がりの中で、自分を抱きしめている背中に手を回そうとした。
 
 
 クーラーのスイッチが自動的にオンになって、静かに涼しい風を送り始める気配に晃は目を醒ました。見慣れない白い天井を眺める。
 ――どこだ……、ここ?
 すぐ隣で誰かが身じろぐ感じにぎょっとして目をやると、適度な筋肉に覆われた白い肩と腕が見えた。それからシーツに乱れた亜麻色の髪。
「……!」
 閉じられた長い睫が震えて、ふっと開かれた。淡い虹彩が微笑を含む。
「……おはよう、晃くん」
 水無瀬はタオルケットをはぐって、ベッドの上で上半身を起こした。水無瀬はハーフパンツ一枚で寝ていたようだ。
 水無瀬が服を着ていないのを見て、晃は慌てて自分の方を確認した。晃は見慣れないTシャツとショートパンツを穿いていた。
「ここ、どこですか?」
 朝の第一声にしては酷く間の抜けたセリフだったが、晃にはそんなこと構ってる余裕はなかった。
「僕のマンションですが」
 さも当然と言った様子で水無瀬は答えた。
「………」
 呆然として、たっぷり十数秒は固まった晃に水無瀬は言った。
「――全然、憶えてないんですか?」
「……まさかおれ、水無瀬さんに何かしましたか……?」
 怖る怖る晃が訊ねると、水無瀬は目を瞬かせた。
「何か、というと?」
「そ、その……、何か……乱暴でも……?」
「晃くんが、僕に――、ですか?」
 羞恥で頬にかっと血がのぼって、焦るあまり必死になって晃が頷くと、ついに水無瀬が笑い声を立てた。可笑しくて堪らないといった表情で、水無瀬が言う。
「――まさか。晃くんは朝まで爆睡でしたよ。かわいい寝顔を堪能できましたから、僕としては充分おいしかったですが」
 晃は二十四だ。五歳年上のはずの水無瀬に言われるにしても、いい歳してかわいいだなんて、晃は思わず目を泳がせてしまう。
「それに僕は抱きたい方ですから」
 さらりと付け加えられたことばにドキリとした。
 ――抱きたい方……?
 晃も同性とは経験がないので詳しくはわからないが、男どうしでセックスするときは、もし入れるとすれば――入れない場合も多いらしい――、あれをあそこに入れることになるようだ。
 ……ということは、『抱きたい』と言われれば、たぶん水無瀬が能動的な行為をするということで、晃は受動的な立場ということになるのではないか。
 ――ええーっ! そうだったのか……。
 晃は内心で動揺した。
 水無瀬に付き合いませんかと言われてから、これまで具体的な想像をしたことのなかった晃がうかつと言えばうかつだが。水無瀬のあの外見に惑わされて、晃は酷い勘違いをしていたようだ。
「………」
 衝撃に再度しばらく固まっていたら、水無瀬がにっこりとして言った。
「ゆうべは何もしていませんよ。意識のない晃くんに手を出すなんて、そんなもったいないことしません」
「……はあ」
 そんなの楽しくありませんからねと、水無瀬は人並み外れた美貌に笑みを浮べた。
「誓って悪戯もしてません。晃くんを着替えさせるときには、ちゃんと目を瞑ってしましたから」
 水無瀬の笑みが深くなって、瞳の淡い虹彩に、けぶるような微笑が揺らめく。
「シャワー浴びて来るといいですよ。アルコールも抜けますから」
 
 水無瀬手ずからの朝食までごちそうになり、晃は水無瀬が仕事に行くのと合わせて一緒にマンションを出た。もうついでなので、晃は水無瀬のスケジュールを細かく訊いて、発表会まで稽古を見てもらえる日程をチェックした。
 水無瀬と別れると、晃はその足でペガサスの事務所に行って、空いているスタジオを取りあえず押さえた。あとは岬を始めとしたメンバーに、携帯メールで稽古の候補日を流して、発表会までの稽古スケジュールをさっさと決めることだ。
 発表会ではおもだった演技系のレッスンのクラスから各一グループと、予選で選考された自主グループが参加する。例年、総計で十に近いグループが二十分から三十分という規定の中で芝居をすることになる。
 発表会の日は九月の最終日曜日だった。たかだか養成所内部の発表会ではあったが、講師やマネージャーのほとんどが観にくるはずだから手抜きはできない。
 問題は、参加する全員が審査されて、グループ順位と個人順位が、一位から最下位まで発表されることだった。晃はプロダクション契約をしている卒業生だったから、研修生たちの手前、滅多な成績を残す訳にもいかなかった。
 事務所からの帰り道の電車の中で、晃は岬と石井、新人二名のメンバーにメールを送り終えると、ふと水無瀬のことを考えた。
 余裕のある水無瀬の前だと、晃はいつも自分が彼の手のひらの上で、コロコロと転がされているような気がする。とても太刀打ちできないと晃は思う。
 決してあけすけな感情など見せずに、あの美貌と幻惑するような微笑みで、相手が自ら手の内に落ちるように、しむけるかのようなあのひとには。
 ――いっそ思いきって、水無瀬さんに全てを委ねてしまおうか。
 それは自分に取って未知の領域だけれども、水無瀬ならきっと余裕で晃を受け止めてくれるだろう。いま晃が抱えている焦りや自分の才能に対する懐疑心や、将来に対する不安ごとなにもかも。
 委ねてしまおうか? 晃のことを最高の素材だと言ってくれる水無瀬に――。

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